武蔵 松山城
Matsuyama castle
松山城跡【埼玉県比企郡吉見町北吉見】
【立地】平山城
【別称】流山城・白米城
【国指定史跡】「比企城館跡群」松山城跡
【歴史】1399年上田左衛門尉友直の築城とされる。上田氏は吉見冠者頼綱を祖とし、8代友直は扇
谷上杉家の重臣上田氏の養嗣子となって、1397年安戸城を築き、1399年松山館〔城〕を構築し
た。また、1458年友直の孫綱直は太田道灌に城の改築を頼み、松山城を整えたとあるが、この時期
、上田氏の本拠は外秩父にあって、軍事力で松山城主になったという説が有力である。1461年古河
公方勢の来襲で落城、同年綱直が奪取し、1474年再び古河軍に攻略されるなど、松山城を巡って攻
防戦が繰り返された。1537年北条氏直によって川越城を奪われた上杉朝定が松山城へ逃げ入り、勇
将難波田弾正は攻め寄せる敵から城を守り抜いたが、この戦で完成間近の城下町を失った。河越夜戦に
よって北条氏康の城となるが、上田政広は安戸城に籠って形勢を伺っていたが、1546年冬に岩槻城
主太田三楽斎と共に夜襲で奪回。間もなく、三楽斎と不和になった政広は北条方に内応して本領を安堵
され、1547年子の朝直に家督を譲った。1561年9月関東管領に任官した上杉謙信は9万の軍勢
で城を包囲。当主上田朝直は父の政広、子の長則・重直以下、諸支城〔安戸・青島・木呂子・腰越・小
倉など〕の城主ら3千余人と守り続け、容易には落ちなかったが、一旦退陣したと見せ掛けて急襲を掛
けられ落城、上田政広をはじめとする多くの将兵を失った。再度、朝直は上杉憲勝が護る松山城を奪回
する為、その冬、北条氏康・氏政父子に応援を求め、3万の軍勢を得、更に武田信玄・義信の軍勢2万
5千の来援を見、1561年3月上杉謙信軍の到着直前に開城させ、朝直は城主に返り咲いた。157
5年朝直は家督を長則に譲る。1582年朝直が没し、1583年長則没後、長則の兄憲直が継ぎ、1
584年長則の子憲定が城主となった。1590年「小田原征伐」の際、松山来攻を迎える。城主上田
朝広は小田原へ籠城し、松山には城代上田憲定を中心に難波田因幡守・木呂子丹波守・金子紀伊守・山
田伊賀守直安など5千余人、農民も総動員し、防戦に努めたことから、攻め手の前田利家・上杉景勝・
毛利・真田・小笠原・大道寺の諸将も攻めあぐねていたが、城下の僧に説得させて、4月16日に開城
した。家康の関東移封後、桜井松平内膳正家広が1万石で入り、1601年家広没後、後を継いだ弟の
松平左馬允忠頼は関ヶ原の戦功により、同年、浜松城5万石へ移り、松山城は廃城となった。現在は比
高58m、比高40mの山上に曲輪、土塁、堀、井戸跡などが残り、2008年「比企城館跡群」の一
つとして国史跡に指定されている。
【所感】県道27号線沿い當選寺の裏山が松山城跡です。市野川が西へ湾曲する内側に位置し、川側は
急斜面になっています。県道27号線沿い當選寺近くに松山城跡の看板と共に登城口が在り、急斜面を
ジグザグに登ると、右手が笹郭、左上が本郭です。本郭はお寺の跡地になっていますが、東方へ歩くと
、物見櫓台上に松山城趾碑が立っています。本郭がこの山の最高所、ここから東方へ二ノ郭・三ノ郭・
四の郭と並ぶ連郭式の城郭で、それらを腰郭・惣郭・兵糧倉・笹郭・太鼓郭などが取り巻いています。
この城の見所は何と言っても郭間を走る横堀。郭が浮島のように見える掘でカメラを向けずにはいられ
ません。その他、本丸を飲み込むようなコの字型の二ノ郭、四ノ郭の土塁、惣郭の井戸跡〔埋められて
いる〕なども興味深いものでした。ご案内頂いた儀一様に感謝致します。
本郭−笹郭間の堀切〔写真:左〕南西に突き出た笹郭〔写真:右〕
本郭
本郭−二ノ郭間の深い堀
本郭へ半島状に突き出た二ノ郭部分
二ノ郭
中央に溝を持つ二ノ郭南側の土橋〔写真:左〕ニノ郭南側の堀〔写真:右〕
二ノ郭−三ノ郭間の深い堀
三ノ郭−四ノ郭間の池跡と堀
四ノ郭西側の低い土塁〔写真:左〕南方から見た四ノ郭〔写真:右〕
四ノ郭東側の堀
惣郭東側の虎口〔写真:左〕惣郭の井戸跡・畑地〔写真:右〕