美濃 長宗我部盛親陣所
Chosokabe morichika camp
長宗我部盛親陣跡・栗原城跡・連理の榊【岐阜県不破郡垂井町栗原】
清水寺公園【岐阜県不破郡垂井町栗原】
松本金属【岐阜県不破郡垂井町栗原290−2】
【立地】平山城
【別称】栗原城
【歴史】築城年は定かではない。栗原山〔標高235m〕の山腹〔標高214m・比高14
6m〕に築かれた山城である。1525年近江の浅井亮政の美濃侵攻に際し、稲葉備中通則
・丸茂某・国枝宗龍・貞次らが栗原山で応戦したが、稲葉・国枝氏は討ち取られたと云う。
1564年竹中半兵衛重治が閑居し始めた場所とも伝わる。1600年「関ヶ原の戦い」の
際、初め長宗我部盛親(元親の子)は東軍で参戦を考えていたが、近江国水口で東下の進路
を阻まれ、仕方なく西軍に属した。その後、西軍主力の一翼を担い、伊勢方面の攻略に成功
。合戦当日の9月15日、毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、吉川広家らと南宮山に布陣し
たが、東軍と内通していた吉川広家に阻まれて進軍出来ず、西軍の敗色を見て戦わずして帰
国した。戦後、領地を没収され、山内一豊が土佐へ入り、盛親は浪人となって京都に潜伏。
「大坂の陣」では豊臣方として活躍したが、戦後、捕えられて斬首された。現在、栗原山の
陣所は山林となり、曲輪、土塁らしきものが残る。東麓は清水寺公園となり、遺構は無い。
【所感】安国寺恵瓊陣跡と同じように陣旗が立つ長宗我部盛親陣跡は2箇所在ります。松本
金属垂井工場から県道215号線(養老垂井線)を300m程南下した山側に「長宗我部盛
親陣跡・竹中半兵衛閑居の地・・・」の看板が立ち、この道を車で150m入ると三叉路が
あり、真っ直ぐ進むと清水寺公園、左の砂利道(車は×)へ入ると、栗原山の陣跡へ行く登
山道になります。先ず、清水寺公園方面へ進むと、正面に長宗我部盛親陣跡の看板と陣旗、
狭い入口を入ると公園の駐車場があります。ここに駐車し、徒歩で三叉路まで戻って、陣跡
へ向かう砂利道へ入ります。陣跡の入口は防獣フェンスの扉、自ら鎖を解いて、再度、固縛
して入ります。初めは緩やかな坂路、途中から想定外の急坂に変わります(ストックがある
と楽)。栗原九十九坊跡〔町指定史跡〕は、栗原山の山腹〜山麓一帯に九十九坊と称する百
余坊の寺院が在ったと書かれてあり、1335年足利×新田の戦いで兵火によって焼失した
そうです。現在、沢山の五輪塔が並び、広い平坦地があります。登山道へ戻って右手の看板
に従って奥へ歩いて行くと、大きな榊の木があります。ここが栗原城跡・竹中半兵衛重治の
閑居地・長宗我部盛親陣跡、清水寺公園と同じように陣旗が立っています。この一段上にも
平坦地が、清水寺公園も含めて5000人の兵が駐屯出来る広さはあると思います。
長宗我部盛親陣跡・清水寺公園・栗原山東麓
2つの陣所の分岐点
陣跡入口のフェンス扉(自ら開閉施錠)
山道
栗原九十九坊跡【町指定史跡】と平坦地
栗原連理の榊・長宗我部盛親陣跡入口
長宗我部盛親陣跡・栗原城跡の平坦地
石仏の安置所
連理の榊【県天然記念物】・長宗我部盛親陣跡・竹中半兵衛閑居の地