三河 百々城
Dodo castle
百々城跡【愛知県岡崎市百々町東側】
七所神社【愛知県岡崎市百々町池の入28】
広美古戦場跡【愛知県岡崎市八ツ木町郷北ノ切】
【立地】丘城
【歴史】標高40m、比高10mの丘陵上に築かれた青山忠門の居城とされる。平安期、藤
原師重が上野国吾妻郡青山郷に住んで青山氏を名乗り、忠門は師重の7代孫に当たる。三河
国額田郡百々村に土着した時期、築城年は不明。1426年頃、松平宗家3代信光が松平か
ら岩津へ移住の際、青山権之尉光教が百々に城を築いたともされる。1518年忠正の長男
として生まれた忠門は松平宗家8代広忠に仕え、1548年「小豆坂の戦い」が初陣。15
60年「桶狭間の戦い」では家康に属し、1563〜1564年「三河一向一揆」では上和
田城を守備した。1571年4月武田勢秋山伯耆守と松平源九郎が岩津〔広美古戦場〕で戦
う。この時、岡崎勢より加勢して阿知波右衛門・青山喜太夫忠門・宇野小兵衛らが出陣した
。青山忠門は真福寺村まで出向いて奮戦したが、鉄砲による負傷から歩行が不自由となり、
百々村の住人清水左衛門が敵を追い払い、百々城へ運んで看護したが、3日後、弟青山俊成
に見守られながら無くなり、清水屋敷〔青山府君碑の場所〕に葬ったと云う。忠門の子忠成
は幼少より家康に仕え、1585年秀忠の守役を命ぜられ、1588年秀忠に従って上洛、
秀吉より従五位下常陸介に叙任された。1590年家康関東移封に伴い、忠成も相模国高座
郡5000石を得て移り、廃城となる。現在は青山氏の墓碑が建ち、遺構は無い。
【所感】県道39号線〔旧国道248号線〕百々西町信号を東へ曲がり、次の河原町信号を
南へ上ると七所神社の東側になります。七所神社を背後にしたとき、直ぐ東に見える森が百
々城跡になります。場所がよく分からなかったので、近所の人に聞きました。
青山府君碑
広美古戦場跡辺り