越後 高田城
Takada castle
高田城跡【新潟県上越市本城町】
上越教育大学附属中学校【新潟県上越市本城町6−6−2】
上越総合技術高等学校【新潟県上越市本城町3−1】
上越市立歴史博物館【新潟県上越市本城町7−7】
小林古径邸【新潟県上越市本城町7−1】
上越市陸上競技場【新潟県上越市本城町9−50】
高田城址公園野球場【新潟県上越市本城町9−50】
高田公園オーレンプラザ【新潟県上越市本城町8−1】
上越市立高田図書館【新潟県上越市本城町8−30】
上越市高田スポーツセンター【新潟県上越市本城町8−30】
上越市立城東中学校【新潟県上越市本城町4−60】
高田公園駐車場【新潟県上越市本城町8−46】
【立地】平城
【別称】鮫ヶ城・高陽城
【県指定史跡】
【歴史】1614年福島城に居た松平忠輝〔徳川家康の六男〕が高田城を築いて移ったのが
始まりと云う。しかし、忠輝は生来わがままな性格で、1614〜1615年「大坂の陣」
の際、北陸方面の総大将にあって怠慢な動きに家康・秀忠の怒りを買い、1616年改易と
なった。代わって酒井家次が上野国高崎から越後国頸城郡の一部・仮羽郡30ヶ村に於いて
10万石で入封した。事実上の高田藩はここから始まる。1618年家次没後、嫡男忠勝が
遺領を継ぐが、1619年信濃国松代10万石へ転封、換わって結城秀康の次男忠昌〔松平
忠直の弟〕が松代12万石から越後国頸城・魚沼・仮羽3郡に於いて25万石で入封した。
石高の加増は越前国福井藩主の兄松平忠直、金沢藩主前田家を牽制する理由であった云う。
藩政機構・町方や郷村の支配組織・町座制などの基本構造はこの時期に確立したとされる。
1624年数々の乱行により兄忠直は流罪となり、越前本家を継ぐことになった忠昌は福井
藩主50万石へ移り、換わって兄忠直を継いだ光長が26万3000石で高田藩主となった
。光長の母は2代将軍秀忠の娘であり、光長は江戸に定住、藩政は小栗正高・美作父子や荻
田主馬の両家老が執った。高田藩は新田開発や数多くの殖産興業で極盛期を迎えるが、16
74年光長の嗣子綱賢が病没した為、跡目相続を巡る御家騒動が起こった。5代将軍綱吉は
親裁により光長は所領没収、小栗美作父子は切腹、荻田主馬は八丈島へ流罪となった。16
81年光長は改易を命ぜられ、伊予国松山へ配流された。高田藩は一時幕領となるが、16
85年相模国小田原から10万3000石で稲葉正通が入封、再立藩した。1701年留守
居から老中に昇進、下総国佐倉へ転封、換わって佐倉から戸田忠真が越後国頸城・刈羽と河
内国内に於いて6万7850石で入封、1710年下野国宇都宮へ転封。同年、伊勢国桑名
から久松松平定重が越後国頸城・刈羽・三島・蒲原4郡内に於いて11万3000石で入封
。定逵−定輝−定儀−定賢と5代31年3ヶ月続いて、1741年陸奥国白河へ移った。不
行跡を理由に蟄居となった播磨国姫路藩主榊原政岑の家督を相続した政永が、頸城郡内6万
石と陸奥国4郡内9万石で計15万石で入った。その後、1789年政敦−1810年政令
−1827年政養−1839年政愛−1861年政敬と続いた。1751年の大地震、17
91年領内沿岸に遠見番所・大砲台を築造、1798年陸奥国浅川領で百姓一揆、1802
年本丸焼失、1844年沿岸に台場22カ所設置、幕末に至るまで数多くの洪水、大火に見
舞われた。最後の藩主政敬は、1865年「第一次長州征伐」に参戦、1866年6月「第
二次長州征伐」では先鋒を務めたが、1868年「戊辰戦争」では城を新政府軍に開放した
。1869年版籍奉還で知藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎える。1993年本丸
に三重櫓が復興され、2002年本丸−二の丸を繋ぐ極楽橋が復元されている。現在は曲輪
、水堀、土塁が残る。
【所感】本丸、本丸堀の形はよく残っており、北半分は教育大学附属中学校の敷地になって
います。南半分は普通に歩いて見ることが出来、高い土塁や復興された三重櫓内の見学が出
来ます。あいにくこの日は閉まっていました。蓮が植わる外堀は、北堀・西堀・南堀の西半
分が残り、南堀の東半分、東堀は埋めたてられ、公共施設になっています。往時の川筋はよ
く分かりませんが、天然の堀となる関川、矢代川が流れています。ですが、何度も洪水で悩
まされた川でもあります。
復興 三重櫓・本丸
本丸土塁
復元 極楽橋と本丸堀
本丸堀
北堀
西堀