駿河 江尻城
Ejiri castle
江尻城跡【静岡県静岡市清水区江尻町・二の丸町・江尻台町・宝町】
清水江尻小学校【静岡県静岡市清水区江尻町14-63】
魚町稲荷神社【静岡県静岡市清水区江尻町14-9】
小芝神社・小芝八幡宮【静岡県静岡市清水区小芝町4-10】
食鮮館タイヨー二の丸店【静岡県静岡市清水区二の丸町7-32】
【立地】平城
【別称】小芝城・於芝城
【歴史】1568年12月武田信玄の駿河侵攻により、今川氏と同盟関係にあった小田原の
北条氏康・氏政は薩埵峠に大軍を送り込み、興津川を挟んで長期対峙を続けた。武田方は横
山城を最前線の陣城として改造し、穴山信君に守備を命じた。一年後、信玄の駿河侵攻が再
開され、北条氏の軍事拠点であった蒲原城などを落とし、駿河国中部を手中に収めた157
0年2月頃、馬場美濃守信房の縄張りで江尻城着工。1571年山県三郎兵衛尉昌景を入れ
るが、1575年「長篠・設楽原の戦い」で戦死した為、親族衆の穴山信君を入れた。15
79年再び北条氏との対立が生じ、江尻城の本丸を始めとする櫓の増築、深い堀、高い土塁
を築いて難攻不落の城郭に仕上げた。1581年3月22日武田方の高天神城が徳川軍によ
って落城、武田方の諸城はことごとく徳川軍に占拠され、武田勝頼は甲斐へ退く。1581
年6月三の丸を増築して家康の侵攻に備えたが、1582年田中城・江尻城が開城、家康に
与した穴山信君は甲斐の案内役となり、武田家は滅亡した。その後、城番として西郷孫九郎
家員-松平主殿助家忠が入り、1590年秀吉の「小田原征伐」後、江尻城番は横田隼人、
1591年蒔田主馬・堀久左衛門・中島左門らを立ち会わせ、江尻宿を城の外郭へ移し、巴
川を舟渡しとした。1600年「関ヶ原の戦い」の翌年、当城は不要となり、廃城となる。
現在は学校、住宅、商業地となり、遺構は無い。
【所感】江尻城は遺構が無く、住宅の区画や道路も曲輪や堀の形とも違います。消失した城
にも関わらず、周辺に石碑や看板が点在していたので撮ってみました。
本丸辺り・清水江尻小学校本丸門
西二の丸辺り・二の丸町五差路
東二の丸辺り・小芝城址之碑・清水江尻小学校駐車場南側
東二の丸辺り・江尻城跡の看板・清水江尻小学校駐車場東側
旧巴川内・江尻城跡の石碑・巴川沿い・食鮮館タイヨー二の丸店駐車場横
外郭・江尻城跡の看板・小芝神社・小芝八幡宮
本丸北端・町名の由来「二の丸町」の看板・清水江尻小学校北側
外郭・江尻城について書かれた「魚町稲荷神社」の看板