陸奥 藤崎城
Fujisaki castle

    藤崎城跡【青森県南津軽郡藤崎町藤崎字四本松・村岡・舘岡・武元・村元】
     八幡宮【青森県南津軽郡藤崎町藤崎字四本松105】
藤崎町老人憩の家【青森県南津軽郡藤崎町藤崎字四本松104−4】
    大澤板金【青森県南津軽郡藤崎町藤崎字四本松104−6】

【立地】平城

【歴史】1063年「前九年の役」で源頼義に討たれた安倍貞任の子高星丸が、津軽に逃れて安倍十郎
貞義と名乗り、1092年その子安倍堯恒が藤崎に城を築いたと云う。安倍氏の子孫が安東氏を名乗っ
たと云われるが、明らかではない。1195年安東堯李が蝦夷官領に任ぜらえる。1229年安東愛李
、或いは堯李の時、藤原秀衡の弟秀栄〔十三氏〕が築いて支配した十三湊〔三津七湊の一〕へ進出。愛
李は「津軽萩ノ台の戦い」で十三氏を滅ぼし、孫の良李が十三福島城、弟宗李は柴崎城、宗李の子高李
の代から、再び藤崎城を居城とした。1322年「津軽騒動」とも呼ばれる安東氏の内乱が起こる。藤
崎城主高李と大光寺城五日市館の弟李久との争いとされ、西津軽郡深浦町付近の折曾関で対決したと云
う。安東一族は各地で互いに対立したが、蝦夷官領の李長はこの争いを鎮めることが出来ず、1325
年6月鎌倉幕府は蝦夷官領を李久に替えたが、李長はそれに従わず、争いは激化。1326年幕府は工
藤祐貞を派遣し、李長を捕らえて内乱は鎮まった。1333年「建武の新政」の頃、大光寺城攻撃を中
心とした戦いに安東氏は朝廷方として参戦し、その恩賞として藤崎城主安東高李は所領を安堵され、弟
家李に矢沢、祐李に大光寺を与えられた。後醍醐天皇の新政が崩壊して南北朝の対立となり、津軽では
下国〔十三〕安東氏は南朝方、上国〔藤崎〕安東氏は北朝方〔武家方〕と一族が分かれて戦ったが、上
国安東氏は敗れ、藤崎城と大光寺城は下国安東教李の居城となった。その後、南部守行の攻撃で両城は
落城。1585年城番の大浦為則を最後に廃城になったとされる。現在は住宅地となり、八幡宮に土塁
の一部が残る。

【所感】北は県道131号線・国道339号線辺り、南は国道7号線辺りまでの細長いエリアが城域と
され、二分するように中央を国道339号線が走っています。北から西の郭・本丸・東の郭と並び、現
在、土塁の一部が残る八幡社は「東の郭」の東端ということになります。前回の青森遠征で国道7号線
を通った際、「藤崎城…」の標柱を見付け、今回、安東氏発祥地であることに驚きました。






藤崎城跡・八幡宮

 

八幡宮の土塁・藤崎城跡



藤崎城跡の土塁



安東氏顛末記碑