駿河 深沢城
Fukazawa castle
深沢城跡【静岡県御殿場市深沢】
【立地】平城
【県指定史跡】深沢城跡
【歴史】馬伏川と抜川の合流点に築かれた平城である。創成については不明だが、1514
年甲斐国が内紛状態の際、今川氏親によって本格的な城郭として整備されたと云われる。史
料に登場するのは、1568年12月武田信玄が駿河に侵攻し、北条との抗争が始まってか
らである。信玄の侵攻に対抗して北条氏はいち早く駿河東部を制圧、1569年深沢城を大
規模な改修を行い、6月に信玄の攻撃を受けている。この時期、深沢城周辺は武田氏×北条
氏の激しい争奪戦の舞台となり、1570年12月武田方の駒井昌直らが北条綱成が守る深
沢城への攻撃が始まる。1571年正月3日開城を促す矢文を城内に放たれ、1月16日北
条綱成は武田軍の攻撃に屈して開城し、以後、駿東における武田方の拠点となった。その後
、1579年から始まる第2次甲相合戦の際、深沢城はしばしば北条軍の攻撃を受けるが、
武田方の駒井昌直はよく守った。1582年3月織田・徳川連合軍の武田領侵攻で城兵は逃
亡し、落城した。武田家滅亡後、駿河は徳川家康の領国となり、三宅康貞が深沢城に入り、
駿河国・相模国境を抑える城として利用されたとされた。1590年『小田原征伐』の戦功
により、家康と家臣らは関東へ移封になり、この時期に廃城になったとされる。1960年
県史跡指定となる。現在は民家、山林、耕地、草地となり、曲輪、横堀、土塁が残る。
【所感】現地の縄張図では北から『本丸』『二の丸』『三の丸』の順に並んでいますが、最
近では『本曲輪』を中央とする考え方のようで『三の曲輪』『本曲輪』『二の曲輪』の順に
なります。2つの川の形に合わせて造られた曲輪は何れも広く、曲輪間に枡形虎口を兼ねた
『丸馬出』や『横堀』が設けられ、平城ながら堅固な造りになっています。現在、『三の曲
輪』は耕地、『本曲輪』は雑木林・耕地、『二の曲輪』は民家・茶畑・耕地となっており、
個人所有の土地ですが、自由に入ることが出来ます。
深澤城趾碑と深沢城跡の看板
二の曲輪西の三日月堀
二の曲輪南西端の横堀
八幡宮・二の曲輪
二の曲輪
二の曲輪×東曲輪間の丸馬出
二の曲輪南東端の横堀
本曲輪×二の曲輪間の丸馬出
本曲輪の道
本曲輪
本曲輪×丸馬出間の土橋
土橋脇の横堀
本曲輪×三の曲輪間の丸馬出
本曲輪×三の曲輪間の丸馬出
東曲輪