丹波 福知山城
Fukuchiyama castle
福知山城跡【京都府福知山市内記5・堀】
【立地】平山城
【別称】竜ヶ城・横山城・八幡城・臥竜城・掻上城・福智山城
【天守の構成・形式】望楼型複合連結式
【市指定史跡】福知山城跡
【歴史】小笠原長清の後裔塩見大膳頼勝が現在の朝暉ヶ丘〔標高43m、比高23m〕丘陵
に掻上城を築いて立て籠もったことが始まりとされる。頼勝の子大膳大夫頼氏は姓の横山に
改めたが、後に隠居して功雲と号し、当城の南方堀の内に住んだ。その頃は福知山の名が無
く、この丘陵も横山と呼ばれ、頼氏の城塞も横山城と呼ばれていた。天正年間(1573〜
1590年)、頼氏の子大膳大夫信房が城主であったが、1579年8月明智光秀の丹後侵
攻で攻められ、信房は切腹に至った。光秀は藤木権兵衛・三宅弥平次〔明智秀満〕を城代と
して置き、城を改築、城下町の整備を行い、『福知山城』と改名した。1582年「本能寺
の変」の後、羽柴秀長の家臣桑山重晴・青木一矩が管理し、1584〜1585年北政所の
叔父杉原家次が2万石で入り、家次病没後は田中吉政が入ったとされる。1587年頃、秀
吉の家臣小野木縫殿助重勝が3万1000石で城主となる。1600年「関ヶ原の戦い」で
西軍に与した重勝は東軍の丹後田辺城主細川氏を攻めるも敗戦、自害・除封となった。代わ
って遠江国横須賀の有馬豊氏が6万石で入封、1602年父則頼の所領摂津国三田2万石も
合わせて領有した。1620年豊氏は筑後国久留米23万1000石へ移封、丹波国亀山か
ら岡部長盛が5万石で入る。1624年長盛は美濃国大垣へ転封となり、摂津国中島から4
万5700石で稲葉紀通が入りるが、1648年乱心自害で御家断絶になった。1649年
三河国刈谷から4万5900石で深溝松平忠房が入封、1669年肥前国島原の移封に伴い
、常陸国土浦から朽木稙昌が3万2000石で入封した。その後、朽木氏が13代続く。1
708年2代稙元−1721年3代稙綱−1726年4代稙治−1728年5代玄綱−17
70年6代綱貞−1780年7代舗綱−1787年8代昌綱−1800年9代倫綱−180
2年10代綱方の時、1809年藩校惇明館が創設された。1820年11代綱条−183
6年12代綱張−1867年13代為綱が襲封。1869年版籍奉還により為綱は知藩事と
なり、1871年廃藩置県を迎える。1868年廃城となり、1986年天守が再建される
。2017年続日本100名城に選定され、現在は曲輪、石垣、番所、井戸跡、門が残る。
【所感】4月上旬に丹波遠征を企画し、たまたま福知山を拠点としたこと桜ライトアップの
時期と重なり、夜の天守を撮ることが出来ました。天候にも恵まれ、昼間の天守も快晴で撮
影が出来て大変満足しています。スケジュールの都合で移築城門や少し離れた三の丸〔伯耆
丸〕の撮影が出来ていないので、次回は丹波亀山城と園部城のリベンジと合わせて再訪した
いと思います。
大天守と小天守
天守内部
三重四階 大天守
続櫓と二重二階 小天守
小天守
小天守と朝暉神社
鉄砲石
豊磐井
福知山城天守復元鯱瓦
石垣の転用石
現存 銅門番所
釣鐘門
登城道
法川〔旧堀〕に架かる昇龍橋