豊後 府内城
Funai castle


【立地】平城
【別称】大分城・荷揚城・白雉城

【歴史】1592~1593年「文禄の役」で失敗を咎められた大友義統〔大友宗麟の長子〕は、豊臣
秀吉により豊後国を没収・改易となり、大友氏は滅び、家臣らは散逸した。1594年大友氏の居館〔
府内城の南方1キロ程〕に早川長政(長敏)が入るが、1597年「慶長の役」の際、働きに落度があ
って杵築へ移る。同年、福原直高〔石田三成の妹婿〕が荷落の地に新城を築き、1599年入城、荷落
の地名を不吉として「荷揚」に改めた。直高は僅か1ヶ月で臼杵へ移り、再度、早川長政〔長敏〕が入
るが、1600年「関ヶ原の戦い」で早川長政・福原直高は西軍に属して敗れ、1601年豊後国国東
郡高田より竹中重利〔重隆〕が大分郡内2万石+預かり地1万5000石で入封、府内藩を立藩した。
福原氏が築いた荷揚城は天守櫓・塀・石垣などが未完成であった為、家康に増築の許可を得て、加藤清
正に石垣の造成を依頼、望楼型天守を層塔型に改築したと云う。城・町・道の整備に貢献した重利は1
615年に没し、嫡男重義が襲封。1626年重義は長崎奉行に任ぜられ、キリシタンの弾圧などを行
ったが、1632年突如罷免。密貿易が理由とされるが、江戸浅草の海禅寺で子の源三郎とともに切腹
、一族は隠岐に流罪となった。替わって下野国壬生から日根野吉明が2万石で入封するが、1656年
に没し、無嗣絶家となった。1658年豊後国高松から大給松平忠昭が2万2200石で入封。167
6年嫡男近陳が継ぎ、次男近鎮に1000石+新懇田500石、三男近良に新懇田1000石を分与し
、以後、2万1200石となる。1705年嫡男近禎が継ぎ、奏者番・寺社奉行など幕府の要所に就い
た。1725年近貞〔三河国田原藩主三宅康雄の子〕が襲封。1743年城下柳町より火事が起こり、
天守・櫓・門など悉く焼失。復興の為、幕府から2000両の借金をして東の丸・西の丸・北の丸を復
旧工事を行ったが、天守、その他の櫓にまでは及ばなかった。その後、1769年大雷雨と大地震、1
804年大洪水、1854年大地震と度々天災に悩まされた。近貞の後、1745年近形を経て、17
70年近儔が襲封、1771年学問所〔遊焉館〕を創設。1805年近義-1807年近訓-1832
年近信-1841年近説〔伊勢国桑名藩主松平定永の七男〕と続き、1869年近説は版籍奉還して知
藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。1919年県庁舎の新築工事の為、一部を除いて堀の
大半が埋められ、1945年空襲により西の丸西南二重櫓・着到櫓・大手門が焼失。1965年大手門
・着到櫓・西の丸西南隅櫓を復元、東の丸東北隅櫓・東南隅櫓が復興された。1997年廊下橋を復興
。現在は宗門櫓〔1859年再建〕・人質櫓〔1861年再建〕・土塀・天守台・堀が県指定史跡に指
定され、本丸・西の丸・東の丸が大分城址公園となっている。

【所感】大分空港から杵築城→日出城を経て、大分遠征初日の最後が府内城でした。大分城址公園は東
の丸+本丸+西の丸から成り、現在は曲輪間に在った水堀は埋められています。ですが、公園全体を囲
む水掘や石垣、櫓・塀・門・橋と建物も多いので大変撮り甲斐があります。天守台+櫓台に上り、周囲
を見渡すと、街中に在ることが確認出来ます。




天守台

 

天守跡・本丸〔写真:左〕西北隅二重櫓跡・本丸〔写真:右〕



西北隅二重櫓台・本丸





復元 大手門



現存 人質櫓



現存 宗門櫓



西の丸(二の丸)-廊下橋間の冠木門跡

 



復興 廊下橋



西北隅櫓跡と廊下橋・西の丸



復元 西南隅櫓・西の丸



復元 着到櫓・東の丸



復興 東南隅二重櫓・東の丸



東南隅三重櫓台・東の丸



復興 東北隅櫓・東の丸



松栄神社・山里丸