三河 古宮城
Furumiya castle
古宮城跡【愛知県新城市作手清岳字宮山+道合+郷ノ根・作手高里字塚前+郷ノ根】
白鳥神社【愛知県新城市作手清岳字宮山31】
新城市役所支所【愛知県新城市作手高里字縄手上32】
【立地】平山城
【村指定史跡】
【歴史】1570年武田氏の武将秋山信友が作手へ来襲、徳川氏の属していた奥平氏は抗す
ることなく武田氏に従った。1571年武田信玄の東三河侵出後に最前線基地として、独立
丘の宮山〔標高580m・比高30m〕に馬場美濃守信房が古宮城を築き、小幡又衛門、甘
利左衛門、大熊備前守らが在番となった。1572年甲府を出発した武田軍は、「三方ヶ原
の戦い」で家康を敗走させ、1573年三河野田城を攻めたが、志半ばで信玄は倒れた。作
手奥平家4代貞勝は武田に属していたが、5代貞能は家康と通じていた。奥平貞能、貞昌父
子は石堂ヶ根・田原坂などへ転戦し、作手を捨てて滝山城〔岡崎市宮崎町〕へ移り、家康に
属した。その後、奥平貞能・貞昌父子は所領を安堵され、長篠城を預かることになり、15
75年「長篠、設楽ヶ原の戦い」で、織田・徳川連合軍を勝利へ導いた。現在、白鳥神社裏
に曲輪、空堀、土塁、櫓台、井戸跡と多くの遺構が残る。
【所感】国道301号線作手総合支所東信号を南下し、県道436号線と交わる信号の左折
すると、左手に白鳥神社、その背後に古宮城跡が在ります。大ヒノキが在る場所です。この
城跡は東・西を意識した要素が幾つか見られます。白鳥神社背後に位置する主郭内は土塁で
二分され、土橋を渡った二の郭も同じように土塁で二分されています。主郭と二の郭自体も
竪堀で東西に二分され、土橋のみが東西を繋ぐ唯一の連絡路になっています。主郭の虎口は
南側で、高い土塁が囲む枡形虎口を備えています。二の郭は逆に北側に枡形虎口が在ります
が、西側のみに土塁を置き、東側は緩傾斜の大竪堀が横たわっています。主郭の北・東側は
麓へ向って幾重に腰曲輪が築かれ、城兵の待機場所、或いは家臣の居住地だったと思われま
すが、山の北側であまり陽があたらないエリアです。逆に二の郭の北・西側は防御の為の横
堀・土塁が幾重にも築かれ、主郭側とは全く性格の違うエリアになっており、お薦めです。
白鳥神社・登城口
主郭虎口・両袖型枡形虎口
主郭虎口・古宮の大ヒノキ〔樹高29m・樹齢500年余〕
南から見た主郭東エリア
主郭東エリア東端の虎口・搦手口
主郭東エリアから見た仕切土塁
北から見た主郭西エリア
主郭西エリア北端の虎口
主郭西エリア南西の櫓台
二の郭東エリア・馬出し
二の郭東エリアから見た仕切土塁
二の郭西エリアの土塁
二の郭西エリア
二の郭虎口
二の郭を囲む横堀と土塁
1本目の登り土塁と堀・二の郭北側
2本目の登り土塁と堀・二の郭北側
二の郭西側の曲輪
二の郭北麓の曲輪
二の郭西麓の横堀と土塁
大手虎口
主郭×二の郭を二分する大横堀
主郭×二の郭を二分する竪堀
主郭南側の横堀
主郭東側の横堀
主郭北西側の竪堀
主郭北西側の牢屋跡
主郭北西麓の曲輪
主郭北側の曲輪
主郭北麓の横堀
主郭北麓の長い土塁と平坦地
主郭北麓の土塁に囲まれた曲輪