山城 伏見城
Fushimi castle
伏見城跡【京都府京都市伏見区桃山町古城山・二の丸・治部少丸・丸山・大蔵ほか】
伏見桃山城【京都府京都市伏見区桃山町大蔵45】
伏見北堀公園【京都府京都市伏見区桃山町大蔵】
桃山東小学校【京都府京都市伏見区桃山町伊庭12】
御香宮神社【京都府京都市伏見区御香宮門前町174】
【立地】平山城
【別称】指月城・木幡山城・桃山城・伏見桃山城
【歴史】関白職と聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、太閤となった豊臣秀吉は新たに隠居所を造
営することを計画し、1592年8月17日伏見指月〔桃山町泰長老辺りか〕が選ばれ、2
0日縄張りが始まった。宇治川に架かる観月橋の北東、指月の丘に築かれたことから「指月
城」と呼ばれた。1593年秀吉の実子秀頼が生まれる。1594年正月、朝鮮出兵の講和
使節を迎えるに当り、拡張と本格的な新築工事が始められ、佐久間政家以下6名の造営奉行
が任命された。この普請は、1592〜1593年「文禄の役」に出兵しなかった大名から
1万石につき24人の軍役が徴発され、石材は讃岐国小豆島、木材は土佐・出羽など遠国か
らも調達された。1594年4月淀古城から天守・櫓が移され、7月聚楽第の解体→当城へ
の移築が行われた。8月秀吉は指月城へ移り、その後も継続して工事が進められたが、15
96年7月13日大地震で倒壊。翌14日より指月の北東、木幡山〔桃山〕に築城を始める
。昼夜兼行の普請が続けられた結果、1596年10月10日本丸、1597年5月5日天
守・殿舎が完成し、秀吉と秀頼が移徒。更に作事は続けられたが、1598年8月18日秀
吉が没し、1599年正月に秀頼は家督を継いで大坂城へ移った。1599年3月3日前田
利家が没し、10日石田三成を佐和山城へ追放した徳川家康は、18日に木幡山城〔伏見城
〕へ入城。1600年7月18日〜8月1日「伏見城の戦い」の際、木幡山城〔伏見城〕を
守る徳川方の武将鳥居元忠らは石田三成軍の攻撃を受けて炎上、落城。本丸・松の丸・名古
屋丸以下悉く焼失した。9月15日「関ヶ原の戦い」で勝利した家康は小堀政次を作事奉行
として伏見城再建に取り掛かり、1602年6月藤堂高虎を普請奉行に起用、中井正清が大
工棟梁として作事を指揮し、畿内諸大名が軍役を負担した。年末にほぼ完成、12月家康が
入城し、1603年2月伏見城で将軍宣下を受けた。1605年秀忠、1623年家光も当
城で将軍宣下が行われたが、1625年破却。その後、立ち入り禁止となり、付近一帯に桃
が数多く植えられたことから桃山と呼ばれた。1912年本丸のやや南に明治天皇陵、名古
屋丸の南方に昭憲皇太后陵が営まれた為、中心部は宮内庁の所管となり、史跡として指定外
になっている。1964年徳善丸の西方〔御花畑山荘〕に模擬天守が復興され、現在は堀、
石垣、移築門などが残る。
【所感】10年ぶりの再訪でした。2003年に伏見桃山キャッスルランドが閉館した後に
訪ねた為、中に入れず、フェンスの外から模擬天守を撮りましたが、2007年伏見桃山城
運動公園として再オープンし、近景で撮れるようになりました。但し、耐震強度不足から、
中には入れません。もともと天守の場所も違い、形も分からないので、中に入れなくても問
題ありません。他にも北堀公園・桃山東小学校の移築石垣・御香宮神社の大手移築門など、
伏見城関連のものがありますが、今回は醍醐寺、平等院観光で寄っただけなので、この模擬
天守だけとなってしまいました。次回、ゆっくり撮影したいと思います。
模擬 天守