蝦夷 五稜郭
Goryokaku

   五稜郭【北海道函館市五稜郭町44】
五稜郭タワー【北海道函館市五稜郭町43−9】


【立地】平城
【別称】五稜城・亀田御役所土居・奥の台場・亀田役所・箱館奉行所

【国特別史跡】五稜郭跡

【歴史】1855年日米和親条約〔神奈川条約〕による箱館開港に伴い、港湾警備を目的に箱館奉行が
新奉行所として、1857年に着工。7年の歳月を経て1864年5月に完成した西洋の「稜堡式」平
城である。箱館奉行諸術調所の教授であった伊予大洲藩主武田斐三郎が、西欧〔主にオランダ〕の兵書
や築城書を参考に設計した品川沖台場と共に国内初の洋式の城である。この城の最大の特徴は、平面に
大砲の死角が無い稜堡の設計で、五角形の星形のため五稜郭と呼ばれた。追手門の外に馬出〔半月堡〕
として三角形の土居、その周りに支堀を設けた。虎口は南西〔追手〕・北・北東の3ヶ所に在った。当
初の計画では、各凌堡間に5つの半月堡を築くことになっていたが、予算の関係で追手門前の1ヶ所の
みとなった。塁壁は郭部のみ石垣とする予定であったが、素堀りの水堀では凍って土手が崩れてしまう
為、堀の両側面に石垣を使った。石は箱館山の安山岩を用い、石垣上端に桔出石垣〔忍び返しの石〕を
設けたり、火砲対応として主要部はボルトで繋ぐなどの工夫が施された。1868年箱館裁判所が置か
れ、同年5月1日旧箱館奉行から薄書図籍を引き継ぎ、官制改革により箱館府となり、裁判所総督の清
水谷公考が府知事となった。1868年9月19日夜半、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は品川沖を脱し、
途中、仙台に立ち寄り、東北戦争で敗れた大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府脱走軍を収容して総勢約300
0人となり、10月20日蝦夷地の鷲ノ木〔茅部郡森町鷲ノ木町〕へ上陸、五稜郭に迫った。守備に当
たっていたのは府兵200、津軽藩兵200、松前藩兵700、救援派遣された備後福山藩兵・越前大
野藩兵500だった。23日〜24日にかけて大野〔北斗市〕・七飯〔亀田郡七飯町〕が激戦地となっ
たが、戦意・兵力・火力に勝る旧幕府脱走軍に押され、府知事清水谷公考は属僚と共に青森へ逃げ去っ
た。旧幕府脱走軍は新政府軍を追って箱館へ突入、五稜郭は無血開城となった。1869年新政府軍は
青森で計8000の攻撃軍を編成、1869年4月になって津軽海峡を渡って反撃。反撃は激しく、各
地で激戦を展開したが、5月に入り、新政府軍は箱館・五稜郭・四稜郭を取り囲む形となり、5月11
日の戦闘を最後に箱館戦争は終盤を迎え、5月18日旧幕府脱走軍は新政府軍に投降した。1952年
国特別史跡に指定され、2010年箱館奉行所の一部が復元されている。現在は水堀、土塁、石垣、堀
が残る函館市の観光名所である。

【所感】初めての北海道、初めての五稜郭、初めての稜堡式城郭。五稜郭タワーに登ってエレベータの
扉が開いた瞬間、その大きさと星形に感動して写真を撮り巻くってしまいました。縄張りや建物ではな
く、形で見せる城です。日本の城は時代とともに豪華に大きくなって行きましたが、城の歴史の最後が
西欧式という点が、時代の変化点を象徴しているように感じました。





五稜郭



半月堡・鎬馬出



半月堡の石垣と空堀



西側の稜堡


 

特別史跡五稜郭跡の石碑と看板〔写真:左〕五稜郭設計者:武田斐三郎先生顕彰碑〔写真:右〕



大手虎口脇の石垣と水堀

 

兵糧庫前に展示されている砲筒〔写真:左〕市立函館博物館五稜郭分館前の小土塁〔写真:右〕



五稜郭タワーから見た箱館奉行所

 

弐之間から見た参之間・箱館奉行所〔写真:左〕畳廊下・箱館奉行所〔写真:右〕

 

清所・箱館奉行所〔写真:左〕用場小用所・箱館奉行所〔写真:右〕


 

箱館奉行所〔写真:左〕井戸跡〔写真:右〕



北虎口正面の一文字土居

 

北虎口脇の空堀〔写真:左〕北東虎口脇の空堀〔写真:右〕



北東虎口跡の橋台石垣