尾張 羽黒城
Haguro castle
羽黒城跡【愛知県犬山市羽黒字摺墨・城屋敷】
犬山市民文化会館【愛知県犬山市羽黒字摺墨11】
興禅寺【愛知県犬山市羽黒字城屋敷16】
羽黒小学校【愛知県犬山市羽黒字前川原67】
羽黒八幡宮・成海神社【愛知県犬山市羽黒字八幡東3】
野呂塚【愛知県犬山市羽黒字前川原23−3】
【立地】平城
【別称】梶原館
【歴史】1201年梶原景時の孫景親〔豊丸〕の築城とされる。梶原景時は源頼朝に信望のあった御家
人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、1199年頼朝没後、1200年幕府より追放され、京都
へ落ち延びる途中、嫡子景李・次男景高とともに滅ぼされた。この時、景高の子豊丸の乳母であった隅
の方は、豊丸を連れて出身地である羽黒へ向い、郷士の長谷部左膳を頼って移住した。景親から17代
目の景義は信長に仕えたが、1582年「本能寺の変」の時、梶原氏も断絶した。1584年「小牧、
長久手の戦い」の際、秀吉はこの城を修復させ、堀尾茂助・母方の法秀院が梶原家の出生と伝えられる
山内伊右衛門〔一豊〕に守らせた。しかし、秀吉軍先鋒の森長可隊3000が功を焦って羽黒城へ進出
し、家康軍の酒井忠次、奥平信昌、榊原康政ら5000の迎撃を受け、城は焼失した。これを「羽黒の
戦い・八幡林の戦い」と呼ぶ。当地は古墳時代後期に築かれた羽黒城屋敷古墳〔墳長:60m〕の場所
であり、前方後円墳の前方部を利用して築かれたとされる。現在は竹林となり、遺構は無い。
【所感】県道27号線沿いの犬山市民文化会館南に磨墨塚公園が在ります。磨墨塚は、源頼朝から梶原
景時に与えられた名馬「磨墨」の塚で、この地で死没したことから、墓が造られました。また、その横
に景時の孫景親の乳母「お隅の方」の墓も在ります。お隅の方はこの地が生地になります。磨墨塚公園
の南の竹藪が羽黒城跡になります。竹林内を歩いて行くと、正面に古墳が横たわり、古墳の上に城址碑
立っています。大河ドラマ「功名が辻」をきっかけに古墳の南側と西側に歴史看板が設けられ、訪ね易
くなっています。羽黒小学校の東150m程、羽黒八幡宮の北西100m程の三角地に「八幡林古戦場
と野呂塚」の説明看板、森長可隊で討死した野呂助左衛門之碑、野呂塚の石碑が在ります。
羽黒城跡・竹林園〔写真:左〕羽黒城址の看板と東屋〔写真:右〕
羽黒城屋敷古墳・前方後円墳
羽黒城址の石碑・古墳上〔写真:左〕羽黒城跡の看板〔写真:右〕
磨墨塚の説明看板と磨墨塚〔写真:左〕隅之方の墓と名馬磨墨塚の石碑〔写真:右〕
野呂塚の石碑〔写真:左〕野呂助左エ門之碑〔写真:中央〕野呂助左衛門之碑〔写真:右〕
「八幡林古戦場と野呂塚」の看板〔写真:左〕羽黒八幡宮〔写真:右〕