遠江 浜松城
Hamamatsu castle
浜松城公園【静岡県浜松市中区元城町100−2】
元城小学校【静岡県浜松市中区元城町102−1】
浜松市役所【静岡県浜松市中区元城町103−2】
浜松市美術館【静岡県浜松市中区松城町100−1】
県西部浜松医療センター【静岡県浜松市中区富塚町328】
浜松市立看護専門学校【静岡県浜松市中区佐鳴台5丁目6−1】
西来院【静岡県浜松市中区広沢2丁目10−1】
太刀洗池【静岡県浜松市中区冨塚町】
清瀧寺【静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405 】
宗源院【静岡県浜松市中区蜆塚1丁目20−1】
若宮八幡社【愛知県岡崎市朝日町森畔12】
八柱神社【愛知県岡崎市欠町石ヶ崎52−1】
【立地】平山城
【別称】引馬城・曳馬城
【天守の構成:形式】独立式望楼型天守
【市指定史跡】
【歴史】1570年曵馬城の南西400mの山上に徳川家康が築いた城とされる。1578
年・1579年・1581年と修築・増築工事が繰り返され、1582年頃、ほぼ完成する
。その間、1572年「三方原の戦い」で武田信玄に大敗するも、1575年「設楽原の戦
い」で武田勝頼勢を敗走させ、1582年「天目山の戦い」では武田氏滅亡に追い込んだ。
駿河・遠江・三河・甲斐・信濃5国を手に入れた家康は、1586年駿府城へ移り、家臣の
菅沼定政が預かる。1590年家康関東移封に伴い、秀吉の家臣堀尾吉晴が12万石で入る
。1600年「関ヶ原の戦い」の後、1601年桜井松平忠頼が5万石で浜松藩を立藩。そ
の後、1609年水野重仲の城地、1619年高力忠房、1638年大給松平乗寿、164
4年太田資宗−資次、1678年青山宗俊−忠雄−忠重、1702年本庄松平資俊−資訓、
1723年大河内松平信祝−信復、1749年本庄松平資訓−資昌、1758年井上正経−
正定−正甫、1817年水野忠邦−忠精、1845年井上正春−正直と続き、明治を迎える
。1958年天守を復興、2014年3月天守門が復元され、現在は浜松城公園、浜松市美
術館、元城小学校、浜松市役所などに変わり、石垣、曲輪、井戸が残る。
【所感】浜松城公園は元城小学校北側に無料大駐車場、石碑・看板・縄張り図が至る所に設
置され、訪城者をアシストするアイテムが揃ってます。武田との内通を疑われ、信長の命で
殺害された築山御前の墓は西来院、愛知県岡崎市八柱神社の二ヶ所に在り、殺された佐鳴湖
東岸には太刀洗池の石碑が立っています。こちらは県西部浜松医療センター・浜松市立看護
専門学校間の東西に長い有料駐車場の東隅で、医療センターのバス停近くになります。写真
を撮る程度の時間なら有料駐車場も無料です。母親の築山御前が殺されたことを知り、家康
の長男信康は二俣城で自害しますが、信康の墓は清龍寺、愛知県岡崎市若宮八幡社に在りま
す。浜松城在城の間、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5国を得ましたが、反対に正
室、長男を失いました。
三重三階地下一階 復興天守・天守曲輪
浜松城天守台地下の井戸・天守曲輪
復元 天守門・天守曲輪
天守門内部〔写真:左〕天守門の石落とし〔写真:右〕
天守曲輪
井戸跡・天守曲輪
天守曲輪搦手門跡・埋門跡
天守曲輪南端の石垣
富士見櫓跡と石垣・本丸北端
若き日の徳川家康公像・本丸
本丸
清水曲輪の一部
西端城曲輪
浜松城作左曲輪跡の石碑・浜松市美術館入口
作左曲輪
浜松城二之丸跡碑・タイムズ浜松市役所本庁舎駐車場外・国道152号線沿い
家康公鎧掛松
浜松城大手門跡碑・国道152号線沿い・大手門ビル前・中区連尺町
徳川秀忠公誕生の井戸
本多忠勝屋敷推定地・遠江分器稲荷神社前・中区田町
鵜殿兵庫頭屋敷推定地・西小学校前・中区鴨江町
山家三方衆屋敷推定地・秋葉神社前・中区三組町
本多重次屋敷推定地・浜松城公園前交番前・中区松城町
近藤康用屋敷推定地・浜松中部学園駐車場前・中区鹿谷町
鳥居元忠屋敷推定地・浜松市立中央図書館駐車場入口・中区松城町
松下之綱屋敷推定地・中区元目町
浜松城出丸跡の石碑・浜松市立中央図書館入口・中区松城町
玄黙口門跡〔元目口〕の看板・中区元目町
霜垂口門跡〔下垂口〕の看板・中区元目町
高札場跡碑・国道152号線沿い・谷島屋書店前・中区連尺町
杉浦本陣跡碑・浜松信用金庫前・中区伝馬町
梅屋本陣跡碑・浜松信用金庫前・中区伝馬町
太刀洗池の石碑/築山御前の墓〔西来院〕/築山御前御首塚〔八柱神社・愛知県岡崎市〕
信康廟〔清瀧寺〕/岡崎三郎信康公御首塚〔若宮八幡社・愛知県岡崎市〕
松平康俊公の墓〔西来院〕/松平信祝の娘多世姫の墓〔宗源院〕/小笠原基長の室千代子の墓〔宗源院〕