駿河 花倉城
Hanakura castle
花倉城跡【静岡県藤枝市花倉】
徧照寺【静岡県藤枝市花倉397-1】
長慶寺【静岡県藤枝市下乗之郷1225】
【立地】山城
【別称】葉梨城
【市指定史跡】
【歴史】1352年今川範氏〔1316~1365年〕が居館〔徧照寺駐車場辺りか〕の詰
城として築いた城で、烏帽子形山〔標高392m〕北東1キロに位置する支脈尾根・城山〔
標高297m、比高250m〕に位置する。1337年遠江守護今川範国〔?~1384年
〕は美濃国青野原合戦の戦功により駿河国葉梨荘を得たが、駿河国は南朝勢力が強く、入国
が困難であった。1338年山城国御家人の松井兵庫允・八郎父子に葉梨荘内の田地屋敷と
地頭職を与え、次いで駿河南朝方の主力安倍城主狩野氏等を攻撃、今川氏は荘内の状況を見
ながら入国の機会を伺っていた。1350年今川氏は再び安倍城に籠る狩野孫左衛門、及び
、石塔義房の家人らを攻撃、1351年駿河府中に南朝方の諸氏を攻め、これを久能山城に
追撃した。1352年駿河国大津城に立て籠もる石塔家人の佐竹・藁科勢を攻め、連日激戦
の末、徳山山中に退去させた。駿河南部の南朝勢力は大津城陥落によって終結した。今川範
国の子範氏は遠江府中から葉梨荘へ入り、駿河の拠点となる居館・詰城〔花倉城〕を築き、
居館周辺に家臣を住まわせた。範氏-泰範〔1334~1409年〕-範政〔1364~1
433年〕の居城となり、範政の代で駿府へ移る。範政の後、範忠〔1408~?〕-義忠
〔1436~1476年〕-氏親〔1473~1526年〕と続き、1536年氏輝没後、
今川家の跡目争い「花蔵〔花倉〕の乱」が起こる。氏親の三男承芳〔正室の子・義元〕が継
ぐことになったが、これを不服とする次男良真〔側室の子・玄広恵探〕が兵を挙げて花倉城
・方上城に立て籠もり、義元方岡部親綱らの攻撃で敗れた。良真は山伝いに瀬戸谷へ逃れ、
普門寺で自害した。現在は山林となり、曲輪、堀切、土塁、井戸が残る。
【所感】花倉城跡へ行く道は南・東・北からと幾つか有りますが、私は県道から最短となる
北からのコースを選びました。城跡に最も近い道〔大手曲輪〕までは車で行けますが、道幅
がかなり狭いので軽自動車に限ります。県道81号線×県道25号線が交わる西方信号交差
点から西へ450m進んだ左の脇道に入り、2キロ弱、国土地理院地図の標高297m地点
〔花倉城跡〕東方の道を目指して、ひたすら軽自動車で上って行きます。最終地点が耕作放
棄ちなった茶畑で、登城口に廃屋と花倉城跡の看板があります。ここから山頂〔標高297
m地点〕へ向けて歩いて登りますが、登り初めと、途中に土橋の遺構があります。登城口の
縄張り図にあるように南北に長い本曲輪の北端には櫓台のような土壇があり、そのから下っ
て尾根伝いに進むと、北端にも大堀切、その手前に自然地形にも見える北の曲輪があります
。本曲輪の南に二の曲輪、その南・北に深く長い堀切を配し、堅固な造りになっています。
更に南へ進むと、景色の良い三の曲輪、その南に倒木で埋もれた堀切があります。曲輪は特
に高い土塁に囲まれている感じは受けませんが、尾根を遮断する堀切が明確に残り、これが
見たくて花倉城跡に来ました。
花倉城跡入口・大手曲輪
大手曲輪西側の土橋と箱堀
登城道
登城途中の土橋
三の曲輪
三の曲輪南側の堀切・倒木
三の曲輪から見た駿河湾方面の景色
二の曲輪南側の堀切
二の曲輪
二の曲輪-本曲輪間の堀切
二の曲輪東側の帯曲輪
本曲輪
本曲輪北端の土壇状遺構・櫓台?
北の曲輪・未完成?
北端の堀切
今川範氏公・今川氏家公の墓・徧照寺
今川泰範公と太原雪斎の墓・長慶寺