肥前 原城
Hara castle
原城跡【長崎県南島原市南有馬町乙】
有馬接骨院【長崎県南島原市南有馬町乙1833-7】
【立地】丘城
【別称】志自岐原の城・原の城・有馬城・日暮城・春の城
【世界文化遺産】長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
【国指定史跡】原城跡
【歴史】1496年頃、有馬貴純が島原湾に張り出した標高31mの丘上に築かれた城で、
有馬氏が本城とする日之江城と共に重要視された。有馬氏は藤原純友の6代後裔藤原経澄を
初代と云う。経澄は源頼朝より高来郡有間荘の地頭に任ぜられ、建保年間(1213~12
19年)頃、常陸国から口ノ津に下向し、有間村に館を構えて有間〔後の有馬〕氏に改名し
た。鎌倉時代(1185年頃~1333年)以降、島原半島は有馬氏の他に地頭御家人とし
て深江・安富・安徳・大河氏などの諸氏が居り、多くの土豪も各地に割拠する状況で、南北
朝時代~室町時代(1336~1573年)が過ぎた。15世紀後期、有馬氏8代貴純の頃
、諸氏を支配下に置き、更に大村純伊を押さえて高来・彼杵・藤津の肥前3郡を領した。1
545年有馬氏10代晴純の頃、龍造寺氏との戦いに勝ち、三根・佐嘉・神埼3郡も支配し
、大村氏に次子純忠を養子に入れて関係を強化した。16世紀後期、有馬義直・晴信の代に
キリスト教の布教を容認し、有馬領は宣教師の布教の拠点となった。特に口ノ津港は南蛮貿
易の中心として栄え、宣教師の情報交換の場、全国宣教師の会議開催、更に豊臣秀吉の宣教
師追放令公布後、弾圧を逃れた宣教師が当地に集合したと云う。有馬晴信はキリシタン大名
として日之江城下に多くのキリスト教文化の導入を図り、朱印船貿易などで多大な利益を得
た。1609年マードレ・デ・デウス号事件から岡本大八事件に至り、有馬晴信は幕藩体制
確立の為、犠牲者となって処刑された。晴信の子直純が継ぐが、1612年幕府のキリシタ
ン禁止令のもと、領内の統制不備を問われ、1614年日向国延岡藩県城〔松尾城〕に転封
、島原に於ける有馬氏の支配は終わった。一時、天領となったが、1616年大和国五条か
ら松倉重政が4万石で入封。有馬氏の旧城であった日之江城・原城を廃され、石垣や塀は島
原城に運ばれた。松倉重政・勝家2代に亘る厳しい年貢の収奪とキリスト教徒弾圧により、
1637年10月有馬村で代官×農民が衝突〔代官殺害事件〕したことが発端で一揆〔島原
の乱〕が勃発。島原の農民による島原城攻撃、天草島の富岡城攻撃、11月末頃には原城跡
に籠城する方針が固まり、島原半島から2万4000人余、天草島から1万3000人余の
農民・信徒が集結した。一揆勢は天草四郎・馬場休意らの指揮で村々から木や竹を運び込み
、崩壊した箇所に盛土、竹柵・木柵を巡らした。また、天草勢が乗って来た船を解体して楯
とし、横堀、土塁を築いた。また、「有馬鉄砲」が特産物であったことから、火縄銃の鋳造
・修理、火薬や火縄作りに長けた者も多かった。1638年2月27日板倉重昌・松平信綱
ら幕府軍13万人の総攻撃で落城、天草四郎を筆頭に一揆勢全員が討死、死者で空堀が埋ま
ったと云う。1938年国指定史跡、2017年4月続日本100名城に選定される。現在
は空堀、石垣が残る。
【所感】ここで大戦があったとは思えないほど、今は静かな海が見える丘になっています。
島原城から国道251号線を南下し、原城跡の看板〔有馬接骨院の前〕が在る場所を左折、
緩やかな坂を上って丘陵上の道を進むと、850m程で突き当りの駐車場に着きます。後に
縄張図を見て気付くことになりますが、これまで走って来た道の両側〔丘陵全体〕が三の丸
・二の丸であったことに驚きます。本丸では詳しい方にお話を伺いましたが、発掘によって
見つかった石は本物ですが、池尻口門跡へ向かう道沿いなど比較的大きな石で積まれた石垣
は後に積まれたものと言っていました。縄張り図・詳しい資料を持っていなかったので、撮
れなかったエリア・場所が出来てしまいました。
空堀
ホネカミ地蔵
本丸正門跡
本丸埋門跡
本丸門跡
本丸池尻口門跡
天草四郎時貞の墓碑・本丸
天草四郎の立像・本丸
破却された石垣・本丸
本丸櫓台
本丸と島原湾