出羽 長谷堂城
Hasedo castle
長谷堂城跡【山形県山形市長谷堂】
本沢小学校【山形県山形市長谷堂1111-1】
本沢公民館【山形県山形市長谷堂1071-1】
長谷堂接骨院【山形県山形市長谷堂4463-2】
さくらんぼ幼稚園【山形県山形市長谷堂1111-3】
JAやまがた本沢【山形県山形市長谷堂1109-1】
【立地】山城
【別称】亀ヶ城
【歴史】最上氏の本拠山形城の前衛基地である長谷堂城は、1514年伊達稙宗による山形侵攻で
落城した記録があることから、それ以前の築城とされるが、詳細は不明である。城山〔標高230
m、比高85m〕山頂を本丸とする独立丘陵で、南を流れる本沢川を利用して山麓全周を水堀で囲
っていたと云う。1594年最上義光の四天王志村伊豆守光安が入る。1600年9月「関ヶ原の
戦い」の前、上杉景勝の重臣直江山城守兼続は2万の兵を率いて最上領の攻略を始めた。13日朝
、江口五兵衛尉が護る畑谷城を攻め落とし、すぐさま山形へ向けて進撃。14日菅沢山に本陣を置
き、山形城最後の前衛基地長谷堂城を包囲した。城は最上随一の堅城。守将志村伊豆守光安、副将
鮭延越前守秀綱、兵1000程で籠城戦となった。初めは圧倒的な兵力で直江軍が優勢であったが
、地の利を生かした固い防衛と城兵の奇襲攻撃が功を奏し、次第に戦は膠着状態となった。29日
「関ヶ原の戦い」で石田方惨敗を聞いた兼続は、10月1日全軍撤退を始めるが、最上・伊達軍の
追撃で長谷堂、富神山周辺は修羅場となり、上杉軍1600人、最上・伊達軍600人の戦死者を
出した。戦後、志村伊豆守光安は直江軍を撃退した戦功から酒田城3万石へ移り、坂光秀・光重が
入るが、1622年最上騒動により山形藩主最上義俊は改易、鳥居右京大夫管轄の後、1623年
廃城となる。現在は長谷堂城跡公園と称され、曲輪、土塁、井戸、堀が残る。
【所感】国道458号線と国道348号線が交差する山形市長谷堂信号交差点〔本沢小学校、本沢
公民館、長谷堂接骨院、さくらんぶ幼稚園、JAやまがた本沢〕の南西に見える独立丘陵が長谷堂
城跡になります。少し表現が可笑しいかもしれませんが、上空からの写真で見ると、二枚貝〔愛知
県人の私が見ると大アサリ(ウチムラサキ)〕が水管を出しているような形に見えます。城跡北方
の広場に駐車場、トイレ、東屋、歴史看板、発掘調査による水堀などが在り、ここから長谷堂城跡
公園の散策がスタートします。広場にある「長谷堂城跡公園散策マップ」を片手に周遊コースを歩
けば、全ての遺構が効率良く見られます。独立丘陵なので堀切等は無く、幾重にも築かれた帯曲輪
や切岸が本丸を守っています。直江兼続が攻め倦ねた長谷堂城。少し離れた場所から見ると、山の
斜面が急で、攻め難い感じが伝わってきます。
長谷堂城跡遠景〔写真:左〕長谷堂城跡入口〔写真:中央〕八幡神社横の登城道〔写真:右〕
帯曲輪群〔写真:左〕本丸北の峰筋〔写真:右〕
本丸東の曲輪〔写真:左〕本丸北の帯曲輪〔写真:右〕
本丸虎口・稲荷神社〔写真:左〕長谷堂城址の石碑・本丸〔写真:中央〕本丸〔写真:右〕
阿弥陀堂・慈眼庵〔写真:左〕長谷堂城跡大手門口〔写真:中央 〕広場の水堀〔写真:右〕
井戸跡・御前清水