三河 羽角村古屋敷
Hasumi old residence

 羽角村古屋敷跡【愛知県西尾市上羽角町郷内】
     専念寺【愛知県西尾市上羽角町郷内121】
上羽角町共同墓地【愛知県西尾市上羽角町風越】

【立地】平地

【歴史】時期、場所は不明。内藤四郎左衛門正成、村越茂助直吉、松山藤四郎の名がある。上羽角出身
の村越茂助は、1564年3歳の時に父俊吉を亡くし、叔父俊信に育てられた。茂助も俊信とともに家
康に仕え、近侍となって駿河国葛谷300石を得る。後に剛勇ぶりが認められて松平信孝が去った三木
城〔岡崎市三ツ木町〕へ入った。1590年家康が関東へ移ると、近江国坂田と武蔵国入間・多摩3郡
内で1000石を受け、後に1万石の領主になる。1600年「上杉景勝討伐」の際に伏見城落城の報
が入ると、家康は江戸へ戻るが、茂助は使者として東軍最前線の清洲へ走り、福島正則や池田輝政に家
康が直ぐに出馬出来ない理由を説明して緊張を解いた。家康としては豊臣恩顧の武将らが本当に東軍と
して動いてくれるのか思案していたが、茂助はその心中を福島らに素直に話し、納得して美濃へ進軍し
たと云う。戦後、家康の老中格として活躍したが、1614年病没。茂助のものと伝わる墓は専念寺境
内と上羽角町共同墓地に在る。


【所感】専念寺の住職にお話を聞いたところ、村越茂助が生まれた羽角村古屋敷が何処に在ったのかは
分からないとのこと。専念寺境内の墓は、草木に埋もれて頭が少し見える程度になっていました。専念
寺から南東へ真っ直ぐ伸びる道を450m進んだ山の突き当たりに共同墓地へ上る階段が在り、少し上
った左上に墓地が在ります。どちらの墓も宝筐印塔の上部しかなく、共同墓地の方は何故か頭が欠けた
一石五輪塔が上に乗っています。


 

村越茂助の墓・専念寺〔写真:左〕村越茂助の墓・上羽角町共同墓地〔写真:右〕