尾張 幡豆崎城
Hazusaki castle
幡豆崎城跡【愛知県知多郡南知多町師崎字明神山】
羽豆神社【愛知県知多郡南知多町師崎字明神山2】
【立地】丘城
【別称】幡豆城・羽豆崎城・羽豆城
【歴史】南北朝時代(1336〜1392年)初期、知多半島先端の丘陵地〔標高28m、
比高25m〕に築かれた熱田大宮司千秋昌能の居城とされる。その後、南朝方の蜂屋修理亮
光経が入り、南北朝時代末期、足利尊氏の一族一色氏が知多郡の守護として半島を掌握し、
1397年頃、支配下に置く。1467〜1477年「応仁・文明の乱」の際、一色氏は細
川氏との対立で所領を失い、替わって佐治駿河守宗貞の支配下となるが、1476年渥美の
田原城主戸田宗光が羽豆岬に進出し、両者は幡豆崎に陣代を置いた。たびたび争いを起こし
ていたが、明応年間(1492〜1500年)、戸田宗光の子憲光が占領し、手中に収めた
。その後、熱田大宮司千秋季忠〔1534〜1560年〕の居城となり、1560年「桶狭
間の戦い」の前哨戦で佐々隼人正とともに今川前衛隊の攻撃で討死した。1562年千賀重
親が家康より三河湾の固め、及び、御船奉行を命ぜられて幡豆崎城へ入った。1590年「
小田原征伐」の後、家康の関東移封に伴い、重親も相州三崎〔神奈川県三浦市三崎町〕へ移
住、1591年1000石を得る。1600年「関ヶ原の戦い」の際、九鬼の軍船を知多よ
り追い払うなどの働きにより、師崎・篠島・日間賀島・須佐村・片名村・乙方村内で150
0石を得て、師崎に住んだ。1602年幡豆崎城を破却し、その古材を用いて字的場に千賀
屋敷を築いて移った。現在は遊歩道、展望台、羽豆神社が在り、削平地が在る。
【所感】知多半島の先端、師崎のフェリー乗り場駐車場横の南北に長い丘陵が城跡で、南側
の羽豆神社と展望台、散策道から成っています。城址碑は中央の展望台横に在り、篠島から
切り出した名古屋城用の矢立石は羽豆神社本殿手前の鳥居横に在ります。釣り人・ライダー
・観光客が絶えない場所です。
羽豆崎城址碑
羽豆神社
名古屋城石垣用矢穴石・羽豆神社
師崎港明神堤から見た幡豆崎城跡