三河 日近城
Hijika castle
日近城跡【愛知県岡崎市桜形町般興】
広祥院【愛知県岡崎市桜形町般興11】
【立地】山城
【別称】名の内城・名ノ内村古城
【市指定史跡】
【歴史】1476年頃、標高270m、比高70mの尾根上に奥平宗家3代貞昌が築いた城とされる。
作手を本拠とする貞昌は、次男貞直〔貞頼・久兵衛〕を日近に配し、日近奥平家の祖となった。貞直は
今川氏に属したが、1556年兄の奥平宗家4代貞勝、菅沼定継と共に離反して織田氏へ与し、今川方
の秦梨城主粟生将監永信を攻撃。この後、「日近の戦い」となり、今川方東条松平勢の攻撃に籠城戦で
護り切ったが、半年後の「雨山の戦い」で本多忠俊らの攻撃に破れ、奥平貞勝は再び今川氏に属し、貞
直は放遂、貞直の長男彦九郎は討ち取られた。1570年武田方秋山信友の三河侵攻が活発になり、降
伏を迫られ、日近城主2代貞友の娘「おふう」、奥平宗家貞能の次男「仙千代」らは人質として送られ
た。1573年奥平氏は武田氏と手を切って家康に帰順し、人質は処刑された。これを悲しんだ貞友は
剃髪し、「おふうの墓」横の瑞屋敷に隠居、1589年に没したと云う。1590年家康関東移封に伴
い、廃城となる。現在は曲輪、土塁、堀切が残る。
【所感】国道473号線と県道35号線の合流点に在る広祥院の裏山が城跡です。本堂横から墓地を経
て、東方へ登城道が続きます。山頂は2段から成る主郭で、東側から南側にかけて土塁が囲っています
。主郭の南にはL字型の腰曲輪が在ります。腰曲輪北東の堀切を入ると、正面に土塁、横堀が左方の谷
へ下りています。更に左へ進んで本曲輪の北側へ回り込むと、横堀が西へ向かって竪堀となって続いて
います。日近城跡は表に見える遺構よりも、見えない裏手の遺構の方が興味深いものがあります。
登城道〔写真:左〕四の郭〔写真:右〕
三の郭手前の虎口〔写真:左〕三の郭〔写真:右〕
二の郭手前の虎口〔写真:左〕二の郭〔写真:右〕
主郭
「日近城の歴史」の看板・主郭〔写真:左〕主郭南端の土塁〔写真:右〕
主郭南側の腰曲輪〔写真:左〕主郭南東側の堀切〔写真:右〕
城郭東端の堀切〔写真:左〕主郭東側の横堀〔写真:右〕
主郭北西側の横堀〔写真:左〕瑞屋敷跡・日近城跡南側〔写真:右〕
侍屋敷跡・日近城跡南側〔写真:左〕おふう・貞子・仙千代の墓・日近城跡南側〔写真:右〕
高氏居館跡・広祥院〔写真:左〕日近奥平家墓所・広祥院〔写真:右〕