安芸 広島城
Hiroshima castle

      広島城【広島県広島市中区基町21−1】
広島市立中央図書館【広島県広島市中区基町3−1】
  ひろしま美術館【広島県広島市中区基町3−2】

【立地】平城
【別称】鯉城・在間城・当麻城・石黒城・御篠城
【天守の構成・形式】複合連結式望楼型天守

【国特別史跡】広島城跡

【歴史】1589年施工の毛利輝元築城の城とされる。南北朝時代(1336〜1392年
)、毛利氏は吉田郡山城を本拠とする一領主であったが、次第に勢力を伸ばし、元就の代で
中国地方の大半を支配する戦国大名に発展した。後を継いだ輝元は、豊臣秀吉の聚楽第、大
坂城を見物し、城下町と一体化した政治、経済の中心地として機能する城郭の必要性を感じ
、1589年瀬戸内海に面する太田川河口最大の在間〔三角州〕に築城を始めた。穂田元清
〔元就の四男〕、二宮就辰〔輝元の側近〕を普請奉行として急ピッチで進められ、城の構造
は大坂城、縄張りは聚楽第を模したと考えられる。1591年輝元は天守の完成で吉田郡山
城から広島城へ入城した。引き続き、中州の堤防、家臣団の屋敷、城下町などの整備が進め
られ、1599年一応の完成となる。しかし、1600年「関ヶ原の戦い」の際、西軍の総
大将となった輝元は家康軍に敗れ、それまでの安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐
7国+伯耆・備中の各半国112万石から、周防・長門2国36万9000石へ減封された
。代わって、尾張国清洲24万石の福島正則が、家康より安芸・備後+備中の一部49万8
200余石を与えられ、広島城へ入り、広島藩を立藩。外堀、外郭の整備を行い、広島城の
全てを完成。また、広島城下を通るように西国街道〔山陽道〕を南下させ、出雲・石見街道
を整備、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図った。だが、正則は豊臣恩顧の武将。幕
府の警戒心は強く、1617年台風による太田川の洪水で広島城を修築した際、武家諸法度
違反の難癖をつけられ、1619年信濃国高井郡高井野〔川中島藩〕に蟄居を命ぜられた。
同年、紀伊国和歌山の浅野長晟〔浅野長政の次男〕が、安芸国+備後半国42万6500余
石を領して入城した。その後、光晟−綱晟−綱長−吉長−宗恒−重晟−斉賢−斉粛−慶熾−
長訓−長勲と浅野氏が12代続き、明治を迎える。1931年国宝に指定されるが、194
5年原爆により、全ての建物が滅失。1953年国史跡に指定、1958年天守〔外観〕復
元、1991年二の丸表御門、御門橋復元、1994年二の丸平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が復元
され、石垣、水堀、井戸跡、曲輪などが残されている。


【所感】国道54号線が隣接する、広島市立中央図書館、ひろしま美術館の北側に広島城が
在ります。初の広島城訪城は、先ず二の丸に復元された太鼓櫓、多聞櫓、平櫓が迎えてくれ
ました。御門橋を渡って表御門を潜って二の丸へ入ると、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓〔
1階のみ〕の内部が無料公開されており、しっかり木造復元されていること確認することが
出来ました。土橋を渡った本丸の下段は広島護国神社関連が大半を占め、本丸上段へ上がる
と、中央に広島大本営跡、北西角にお目当ての大天守が聳えています。往時は渡櫓で繋がれ
た三重三階の小天守が2基在り、史上最大の連結式天守でしたが、現在の小天守は石垣のみ
となっています。天守外観は下見板張り。輝元時代は安土城、大坂城で使われていた最高級
の黒漆塗りで塗られていたようです。黒漆塗りは高価な上に劣化退色が早い為、メンテナン
スが大変ですが、現在のものが黒漆塗りかどうかは分かりません。天守内部は城下町、武具
、刀剣、甲冑などが展示されており、最上階からは広島市街が一望出来ます。旅行で来たの
で、全てを写真に収めることは出来ませんでしたが、天気も良く、良き訪城となりました。



 

五重五階 外観復元大天守
本丸地盤からの高さ:39m 大天守本体の高さ:26.6m


 

天守最上階部〔写真:左〕本丸下段の馬場跡・広島護国神社〔写真:右〕

 

本丸−二の丸間土橋から見た内堀〔写真:左 〕本丸中御門跡〔写真:右〕

 

復元 二の丸表御門〔写真:左 〕二の丸番所跡〔写真:右〕

 

二の丸表御門横の土塀〔写真:左〕二の丸井戸跡〔写真:右〕


 

御門橋と二の丸平櫓〔写真:左〕二重二階 復元 二の丸太鼓櫓〔写真:右〕

 

二の丸平櫓内部〔写真:左〕二の丸太鼓櫓内部〔写真:右〕

 

多聞櫓内部〔写真:左〕原爆ドーム〔写真:右〕