肥後 人吉城
Hitoyoshi castle

  人吉城跡【熊本県人吉市麓町】
人吉城歴史館【熊本県人吉市麓町18-4】
相良護国神社【熊本県人吉市麓町35-1】

【立地】平山城
【別称】相良城・繊月城・三日月城・球麻城・涅槃城

【国指定史跡】人吉城跡

【歴史】人吉城は球磨川×胸川合流点東方の丘陵上に築かれ、相良氏が35代670年続い
た城である。相良氏は藤原南家乙麻呂の流れで、遠江守為憲の後裔周頼の時、遠江国相良荘
に住して相良氏を名乗ったと云う。相良氏5代頼景とその子長頼が源頼朝に仕え、1198
年長頼は人吉荘へ下向、1205年人吉荘の地頭職に任ぜられた。この地は既に平頼盛の家
臣矢瀬主馬佑が城を構えていたが、長頼は城域を拡張し、築城工事を始めた。その時、三日
月型の奇石が出土したことから「繊月城」と呼ぶようになった。この時代の城は現在の人吉
城の南西部、原城跡辺りと思われる。天正年間(1573~1591年)18代相良義陽の
時、人吉城の大改築工事が始まる。1587年20代長毎は秀吉の九州征伐の際、球磨一郡
を安堵され、1592年文禄の役、1592年慶長の役に参戦。1600年「関ケ原の戦い
」では西軍に属したが、相良清兵衛の働きにより、東軍に転じて家康より旧領を安堵された
。藩領は球磨郡44ヶ村で2万2000石、内高は5万2900石であった。1639年2
代藩主頼寛の時、人吉城が完成。1664年3代頼喬―1703年4代頼福―1712年5
代長興と続き、1721年6代長在襲封、この頃、打ち続く天災や幕命による負担で藩財政
は窮乏へ向かった。1738年襲封の7代頼峯の時、1756年御手判銀拝借高に応じて家
禄を差し引くという通達に、藩主一門と家老一派が対立、藩主暗殺計画が発覚した「御手判
銀事件」が起こり、一門方が処分された。1758年家老方が反対した8代頼央が日向国高
鍋藩秋月氏より迎えられて襲封したが、1759年暗殺された。この「竹鉄砲事件」は高鍋
藩への配慮から子供の竹鉄砲による過ち…という事とされ、暗殺は隠された。9代は晃長が
継ぎ、1762年10代頼完―1767年11代福将―1769年12代長寛と続き、18
02年襲封の13代頼徳の時、城内から出火し、建物の大部分を焼失。1806年借銀は1
036貫目に至る。1818年14代頼之が継ぐと、新たに登用した家老の田代政典による
改革が行われたが、1839年15代長福が継ぎ、1841年「茸山騒動」と呼ばれる大規
模な農民一揆が起こり、政典は切腹した。1855年16代頼基が継ぎ、1862年城下の
鍛冶屋から出火し、町の大半、人吉城も全焼した。その後、城の一部が再建され、1865
年丑歳騒動で洋式の軍政改革を進める家老松本了一郎が惨殺された。1869年版籍奉還で
城は荒廃、1877年「西南の役」で薩摩軍の根拠地となったので、建物は全て失われた。
1961年国史跡に指定されている。1989年角櫓、1993年大手門脇多聞櫓と続塀が
復元され、2006年日本100名城に選定される。現在は人吉城歴史館などが建てられ、
曲輪、石垣、井戸跡、土塁が残る。

【所感】八代市から鹿児島へ向かう途中で訪ねました。水の手橋を渡って、左手に長く続く
の石垣〔御館跡の石垣〕を見た時、気持ちが一気に高まりました。水の手橋の袂から撮影を
始め、御下門跡→三の丸→二の丸→本丸の順で進みました。本丸を角に置く梯郭式の縄張り
で、特に二の丸周辺に石垣が多く在り、西麓の御館跡〔相良護国神社〕、大手門付近、川沿
いにも広範囲に石垣が残っています。天気は雨天後の曇りでイマイチでしたが、石垣が堪能
出来ていい訪城でした。





家老屋敷跡



復元 角櫓・西外曲輪



復元 大手門脇の多聞櫓・西外曲輪



大手門脇の雁木の石垣・西外曲輪



御館跡・相良神社



御館入口の石橋



石橋から見た東側の水堀



石橋から見た西側の水堀



御館跡の南西角



武者返し石垣



球磨川沿いの石垣と長塀



水の手門跡と武者返し石垣



水の手門跡



間米蔵跡



復元 堀合門



大村米御蔵跡・欠米蔵跡



御下門跡





三の丸



井戸跡・三の丸



三の丸虎口



三の丸から見た御津賀社跡



三の丸から見た中御門の石垣



中御門跡




二の丸北西の虎口



二の丸石垣





二の丸・御殿跡



本丸