肥前 名護屋城
Nagoya castle

    名護屋城跡【佐賀県唐津市鎮西町名護屋】
  名護屋城博物館【佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3】
道の駅:桃山天下市【佐賀県唐津市鎮西町名護屋1859】

【立地】平山城

【国特別史跡】名護屋城跡並陣跡

【歴史】「朝鮮征伐」を目的に豊臣秀吉が構えた陣城である。場所は松浦半島の中央部で、築城以前は
名護屋越前守経述の垣添城が在った丘陵〔標高90m、比高45m〕と云う。当地は壱岐→対馬を経て
朝鮮半島に最も近く、半島脇の名護屋浦・串浦は、外波の影響を受け難い軍船を停泊させるに適した入
江である。1591年8月頃、加藤清正・小西行長・黒田長政によって城の普請が始まり、10月10
日より九州諸大名による割普請が行われた。1592年3月頃、城の主要部が完成し、4月第1軍小西
行長・宗義智〔対馬〕隊、第2軍加藤清正・鍋島直茂隊、第3軍黒田長政隊と、全9軍・16万人の日
本軍が渡鮮し、「文禄の役」が始まった。軍勢は北上を続け、僅か20日間で漢城〔ソウル〕を落とし
、開戦2ヶ月で朝鮮半島を席捲。一時、明の国境まで進出したが、明からの援軍が参戦、李舜臣率いる
朝鮮水軍に補給路を絶たれ、更に民衆の蜂起に遭い、日本軍は苦境に陥った。また、日本軍の内紛が始
まるなど、急速に戦線が後退し、1593年2月漢城まで撤退。明との講和を進めざるを得ない状況と
なり、4月漢城まで撤退、釜山で守りを固めた。5月15日石田三成が明使一行を案内して名護屋城に
到着。秀吉は使節の一行を歓待し、勝者の立場から和議の条件を提示して明国の王へ持ち帰らせた。下
って、1596年9月秀吉は明使を大坂城で引見したが、明国王の答書は先に提示した和議条件を全く
認めないものだった。激昂した秀吉は、1597年2月再征を命じて14万の軍勢を朝鮮へ送り、「慶
長の役」が始まる。戦線は明の大軍や各地の義兵、兵糧武器の不足などから朝鮮半島南部に限定され、
一進一退の攻防が続いたが、1598年8月秀吉が伏見城で没すると、直ちに朝鮮の諸将に帰国命令が
下り、ここに朝鮮征伐は終結した。1602年名護屋城は破却され、城郭・櫓門などは寺沢広孝が唐津
城へ、大手門は伊達政宗が仙台城へ、城瓦は松浦鎮信が平戸城へ転用されたと云われる。また、石垣に
ついては、1637「島原の乱」で一揆勢が名護屋城へ立て籠もる風説が流れた時、意図的に破壊され
たとも云われる。1926年国指定史跡、1955年国特別史跡に昇格。現在は曲輪、石垣、井戸跡、
土塁、石塁などが残る。

【所感】唐津城下の朝は雨。傘を差して車に乗り込み、“このまま名護屋城をやめて佐賀市へ移ろうか
…でもここまで来て行かないのも勿体無い…” 葛藤を繰り返す中、次来る時の下見ということで名護
屋城へ行くことに決めた。道中、ワイパーが止まることは無かったが、何故か現地に着いたら雨が止む
。いつまた降るか分からない空模様、“一様、カメラは持って行くか…”半ば諦めていたが、次第に大
手口の石垣が見えて来ると、直ぐに気持ちが入れ替わり、いつものように撮り始める。登城坂→東出丸
→三の丸→本丸と、あちこち観察しながら撮り進む。広大な曲輪、素晴らしい石垣が夢中にさせてくれ
る。本丸の天守台まで来ると、北方に加唐島・松島、その奥に薄っすらと壱岐が見える。“何ていい景
色なんだ、来て良かった〜”本丸が最も高い場所で、二の丸、三の丸、遊撃丸、弾正丸、水手曲輪、上
山里丸など、殆どの曲輪が見下ろせ、これも素晴らしい。再訪しても、何ら不満は無い。今度は違う登
城口から違う角度で撮ってみたい。帰りは道の駅で昼食。呼子のイカは昨晩食べたので、佐賀牛御膳を
頂いて佐賀城へ向いました。




名護屋城趾の石碑と大手口

 

登城坂脇の石垣



登城坂から見た東出丸南西面の石垣

 

三の丸虎口〔写真:左〕三の丸井戸跡〔写真:右〕



三の丸



本丸から見た弾正丸東端の石垣と馬場



本丸から見た馬場



本丸から見た二の丸



天守台から見た遊撃丸



本丸枡形虎口

 

多聞櫓台・本丸〔写真:左〕本丸新石垣櫓台〔写真:右〕

 

天守台・本丸〔写真:左〕天守台上の様子・本丸〔写真:右〕



本丸西面の石垣



本丸から見た水手曲輪