遠江 堀江陣屋
Horie Jinya
堀江陣屋跡【静岡県浜松市西区舘山寺町】
ホテル九重【静岡県浜松市西区舘山寺町2178】
かんざんじ堀江の庄【静岡県浜松市西区舘山寺町2061】
手打ちうどん権太【静岡県浜松市西区舘山寺町2061−5】
【立地】丘地
【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の後、大沢基宿(基宥)が1550石で構えた陣屋とされる。そ
の後、基重−基将−基恒−基隆−基朝−基典(定寧)−基之−基昭−基暢−基寿と続き、代々高家を世
襲した。幕府の儀式・典礼を掌る高家は、1603年2月大沢基宿が徳川家康の将軍宣下で式典作法を
任されたことに始まり、高家が役職として確立するのは、1651年頃と云う。高家は万石未満の旗本
クラスだが、官位は従五位下侍従と高かった。1610年基重の代で1000石加増、1705年基隆
の代で1000石の加増を受け、基之に至っては徳川家康の二百回忌法要で日光奉行の大役を果たした
。1860年高家に就任した基寿は、1862年家督を継ぎ、1867年11月9日「大政奉還」の時
、将軍職、及び、内大臣などの辞表を持参して朝廷に伝奏した。1868年新政府から采地を求められ
た際、支配地表高3500石余・実収高5485石であったが、架空の4521石を加えて「1万6石
」と虚偽の報告をし、公認されて堀江藩を立藩した。1869年6月版籍奉還に伴って堀江藩知事とな
り、1871年7月廃藩置県で堀江県知事に任命されたが、石高を操作したことで「万石事件」となる
。家老の安間又左衛門が現高と空高を詳しく区別して事実を明かし、この事件で藩内は混乱、又左衛門
は民部省へ訴え出た。基寿は士族、他5名は平民に格下げ、禁固1年を言い渡された。11月堀江藩は
新県改置で浜松県に合併、1880年頃、堀江陣屋は競売入札が行われ、建物の大半は領外へ移された
。現在は山林、ホテルの一部となり、曲輪が残る。
【所感】陣屋跡付近で掃除をするおじさんに城と陣屋について尋ね、ホテル九重の方に陣屋跡へ入る許
可を得て、遠鉄稲荷神社の場所から山林内へ入りました。縄張り図と比較すると、雑草が生える平坦地
が本丸、もう一つ北側に羽城と呼ばれる曲輪が有ったようで、現在はホテル九重の玄関前になっていま
す。陣屋跡の南麓に居館が在ったようで、現在は遠鉄社員寮となっています。浜名湖パルパルが掘江城
、西隣りの丘が堀江陣屋のようですが、往時、2つの山は繋がっていたそうで、削り取られてホテル九
重の駐車場になっています。堀江陣屋跡の碑は陣屋跡の南麓で、手打ちうどん権太・かんざんじ堀江の
庄の西側に在る専用駐車場に立っています。
東側から見た堀江陣屋跡
堀江陣屋跡・本丸・荒廃地〔写真:左〕堀江陣屋跡の木碑〔写真:右〕