紀伊 堀内新宮城
Horiuchi shingu castle
堀内新宮城跡・全龍寺【和歌山県新宮市千穂1丁目9-29】
水野家墓所【和歌山県新宮市橋本1丁目】
【立地】平城
【別称】堀内屋敷・堀内氏屋敷
【市指定文化財】
【歴史】堀内氏の出自は定かではない。1460年頃、三木城の三木新八郎を破り、その後
、勢力を伸ばした堀内安房守氏虎は、天文年間(1532~1555年)有馬氏の有馬城、
木本の鬼ヶ城を攻略。有馬孫三郎を討ち取って堀内氏善〔氏虎の子〕が有馬の養子となり、
有馬城主となった。その後、曽根の曽根弾正、紀伊長島の加藤甚五郎らの地方豪族を破り、
天正年間(1573~1591年)初期、堀内氏を継いだ氏善が全龍寺の場所に新宮城を築
いた。1591年豊臣秀吉より熊野総地の支配権を許され、紀伊勝山城〔那智勝浦〕の廊之
坊重盛、古座の佐部城を攻め破り、熊野一帯を治めるようになった。この時の石高は4万5
90石、最盛期は6万石に及んだ。1592年「朝鮮出兵」に参加、1600年「関ヶ原の
戦い」では九鬼大隅守嘉隆と共に石田三成軍で参戦し、敗戦後は新宮へ逃げ戻るが、徳川方
桑山一晴の来攻に敗れた。その後、肥後の加藤清正の宇土城で留守居役を勤めたと伝わるが
、1615年病没した。1601年浅野幸長が近くの丹鶴山に新宮城を築いた為、この頃が
廃城と思われる。金龍寺は初代新宮城主水野重仲の菩提寺であり、2代重良が父の法号「金
龍院殿日山常春居士」の「金龍」を取って名付けられた。現在は山門横に堀内氏屋敷跡の看
板・石碑が立ち、寺の西側に在る溝川は堀の名残りと云う。
【所感】金龍寺は、国道42号線から1本西側に入った道沿いに在り、本堂の背後には標高
253mの千穂ヶ峯が鎮座、山の西側に熊野川が流れるという自然の城壁と堀を持った場所
に在ります水野重仲・重良の墓は、金龍寺の南1キロ程の水野家墓所にあります。
堀内氏屋敷跡の石碑と看板・全龍寺山門横
全龍寺・堀内氏屋敷跡
水野家墓所