伊勢 細野城
Hosono castle

     細野城跡【三重県津市美里町北長野】
 美里農産加工組合【三重県津市美里町北長野4】
高木自動車板金塗装【三重県津市美里町北長野1740】

【立地】平山城
【別称】長野氏城

【国指定史跡】長野氏城跡(長野城跡、東の城跡、中の城跡、西の城跡)

【歴史】1274年長野城を築いた長野祐藤の子祐宗が細野家を名乗ったことに始まる。南
北朝時代(1337〜1392年)、掃部亮・佐衛門佐祐永の名があり、長野氏5代豊藤の
子藤信が細野家を継ぐ。弘治年間(1555〜1558年)頃、再び、長野氏16代藤定の
子伊豆守藤光が細野家を継いで安濃へ移り、その子九郎右衛門藤敦が安濃城を築城。細野氏
は長野氏の与力として活躍するが、1568年織田信長の伊勢侵攻の際、長野氏は和睦し、
信長の弟信包を長野氏の養子とすることで治まったが、細野氏は反信長を貫き、1580年
織田信包軍の攻撃で安濃城は落城した。藤敦は一身田の専修寺に逃れ、後に蒲生氏郷に仕え
たと云われる。1982年長野城+細野城〔東の城跡・中の城跡・西の城跡〕が「長野氏城
跡」として国史跡に指定され、現在は山林となり、曲輪、土塁、堀切が残る。


【所感】国道163号線沿いの高木自動車板金塗装近くに看板・登城口が在り、駐車場は登
城口から国道163号線を200m程北上した美里農産加工組合前の砂利の場所に止めさせ
て頂きました。中の城跡に在る略図を見ると、細野城跡〔東の城跡・中の城跡・西の城跡〕
は東西南北4箇所に登城口があるようですが、私は一般的な国道163号線沿いの南の登城
口から入りました。東の城跡→中の城跡→西の城跡の順で行きましたが、道中、ポイントと
なる場所に小さな標柱が立っています。先ず、谷の道を250m程奥へ進むと、右手に東の
城跡へ登る傾斜路が在ります。折り返す形で尾根上を200m程歩くと長野氏城(東の城)
跡碑が立つ帯曲輪、その一段上に主郭があります。帯曲輪は主郭全体を囲み、奥にも平坦地
がありますが、堀切はありません。元の谷に戻り、更に奥へ150m程進んだ左の標柱の場
所から折り返す形で尾根に乗ります。100m程歩くと二重堀切があり、その上に広い主郭
があります。主郭の北端〔堀切側〕に土塁、東側に腰曲輪、南側に曲輪、南方に削平地が続
きますが、これらは後世に耕作地として利用されたようです。土塁や二重堀切を持つ中の城
は、3城の中で最も防御性が高く感じます。再び谷間へ戻り、草をかき分けて100m程奥
へ進むと、終点の西の城跡に着きます。標柱に従って右へ上り、腰曲輪を経て、最高所の主
郭に着きます。主郭の南の尾根は防獣ネットがあって諦め、南西に伸びる尾根は笹が群生し
ていたので諦め、北の曲輪は2つ確認が出来ました。晴天日に行きましたが、3城跡へ向か
う谷間の道は山から水が染み出しているのか、ぬかるんだ場所があるので、気を付ける必要
があります。登城後、服にマダニが付いていたので、肌の露出にも気を付けて下さい。




国道163号線沿いの登城口









東の城跡までの道













東の城跡の登城道(尾根道)



主郭・東の城跡







主郭を囲む帯曲輪・東の城跡









中の城跡までの道





中の城跡の登城道(尾根道)



主郭北側2本目の堀切・中の城跡





主郭北側1本目の堀切・中の城跡





主郭と主郭北端の土塁・中の城跡



周辺より一段高い主郭・中の城跡





主郭南側の曲輪・中の城跡



主郭東側の腰曲輪・中の城跡







主郭までの道・西の城跡



主郭・西の城跡



北の曲輪への道・西の城跡



北の曲輪1つ目・西の城跡



北の曲輪2つ目・西の城跡