伊賀 上野城
Ueno castle
上野城跡【三重県伊賀市上野丸之内106−3】
伊賀流忍者博物館【三重県伊賀市上野丸之内117】
俳聖殿【三重県伊賀市上野丸之内117−4】
芭蕉翁記念館【三重県伊賀市上野丸之内117−13】
史跡旧崇廣堂【三重県伊賀市上野丸之内78−1】
【立地】平山城
【別称】白鳳城・伊賀文化産業城
【天守の構成・形式】連結式層塔型天守
【国指定史跡】上野城跡
【歴史】もとは平清盛の発願で建立された平楽寺、その西の丘に伊賀守護仁木氏の館が在った場所とさ
れる。1579年9月伊勢の国司織田〔北畠〕信雄が8000の兵を率いて伊賀を攻めるが、伊賀の土
豪に敗退。1582年9月織田信長の兵4万の援助を得て、伊賀を平定、家臣滝川雄利を伊賀守護とし
た。雄利は阿拝郡の仁木氏故館・伊賀郡の丸山城・名張郡の滝川市城〔小波田城〕を修復して伊賀を支
配。1582年「本能寺の変」の後、秀吉の時代へ移ると、1584年10月脇坂安治が伊賀守護とな
り、長田の市場に城館を築いて住んだが、翌1585年5月摂津国1万石へ移封。8月大和郡山城主筒
井定次が羽柴姓を賜り、伊賀守に任ぜられ、伊賀国へ移封となった。定次は旧伊賀守護仁木氏の故館跡
に仮館を建て、平楽寺・薬師寺跡地に築城を開始。完成は文禄年間(1592〜1596年)と云う。
1600年「関ヶ原の戦い」の際、定次は徳川家康に従って会津の上杉征伐に参加。実兄の筒井十郎玄
蕃允を上野城の留守居としたが、石田三成の西軍に与した高槻城主新庄駿河守直頼・直定父子の軍勢に
攻められ、十郎玄蕃は戦わずして城を明け渡し、高野山へ逃れた。これを聞いた定次は家康に許しを得
て直ぐに軍勢を率いて戻り、城を奪取。その後、定次は秀頼の寵臣大野治長一族と誼を通じていた、家
臣間の抗争があったなどから、1608年6月領地を没収され、陸奥国磐城平藩主鳥居忠政の預かりと
なる。8月伊予国今治城主藤堂和泉守高虎が伊賀・伊勢20万石・伊予国今治内2万石で入封。161
1年1月自らの縄張りで上野城と津城の大修築を行い、特に上野城は豊臣方の備えとして高石垣で築か
れた。1612年9月2日完成間近だった五重五階天守は大暴風により倒壊。1615年「大阪夏の陣
」の後、大坂の備えとして築かれた天守は不要となり、その後、再建されることはなかった。天守や本
丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁に二重櫓2棟・一重櫓8棟・東大手門・西大手門が建てられ
た。上野城は伊賀国の城として存続が許され、筒井時代の本丸建物はそのまま城代家老の屋敷として利
用された。1620年高虎の弟藤堂高清が初代城代となり、一族の藤堂玄蕃・藤堂新七郎を伊賀付とし
た。1640年高清没後、元則に継がれ、その後、1651年元住−1687年高稠―1731年良成
−1742年元杜−1745年元甫−1757年元福−1781年元長−1794年元亭−1807年
元孝−1821年老職が月番制−1840年元晉―1865年元施と、13代藤堂家が城代を勤めた。
1932〜1935年地元名士により三重天守が復興され、現在は水掘、石垣、井戸跡が残る。
【所感】現在、三重大天守+二重小天守+城門が築かれていますが、往時は五重天守+二重付櫓で、城
門や城門までの石段は無かったようです。伊賀上野城の見所は高石垣と天守、城代役所〔屋敷〕跡(筒
井古城跡)になりますが、周辺には伊賀流忍者博物館・俳聖殿・芭蕉翁記念館・史跡旧崇廣堂なども有
って、いろいろ楽しめる観光地になっています。
三重三階 模擬木造天守 小天守と大天守 本丸地盤からの高さ:33.3m
藤堂高虎座像と唐冠形兜・大天守1階〔写真:左〕大天守1階〔写真:右〕
大天守2階〔写真:左〕大天守3階〔写真:右〕
大天守3階から見た本丸(筒井古城跡・東方面)
藤堂高虎の本丸高石垣 高さ:30m
忍び井戸・小天守1階〔写真:左〕史跡 上野城跡の石碑〔写真:右〕