三河 飯盛山城
Iimoriyama castle

飯森山城跡【愛知県豊田市足助町飯盛】
  香積寺【愛知県豊田市足助町飯盛39】

【立地】山城
【別称】飯盛城・飯森山城・足助城

【国重要文化財】足助八幡宮本殿
【県指定史跡】

【歴史】鎌倉時代初期、飯盛山〔標高251m、比高130m〕山頂に築かれた城で、築城者は足助重
長、2代足助重秀とも云われ、ハッキリしない。足助氏は清和源氏の出で、源満政から6代目の重遠が
美濃国から尾張国浦野へ移って浦野氏を称し、浦野重遠の子重直が山田氏を名乗り、山田重直の子重長
が足助へ移住して足助氏を称したと云う。移住の時期は、治承年間(1176〜1180年)とも伝え
られ、初め黍生城を本城としたされるが、詳細は不明である。1180年重長は源行家に加担して美濃
国墨俣で平重衡と戦い、長兄の山田重満と共に重長は討死した。その後、重秀−重朝−重方−頼方−貞
親と続き、7代重範は、1331年「元弘の乱」の際、後醍醐天皇の要請に応じて笠置山で奮戦するが
、落城の際に捕らわれ、1332年京都六条河原で斬首された。重範没後も宮方として戦ったが、次第
に勢力が弱まり、8代重政の時、足助を去ったとされる。足助氏は少なくとも1357年までは足助に
在住したとされ、1427年足助氏の居館跡に飯盛山香積寺が建立された。15世紀後期、鈴木忠親が
足助城を築くと、飯盛山城も改修され、支城として機能したと思われる。足助城は鈴木忠親−重政−重
直−信重−康重の居城となる。1525年松平清康〔家康の祖父〕が2000の兵を率いて足助に迫る
が、2代重政は松平清康の妹を3代重直の妻とすることで松平家に属した。1535年「守山崩れ」で
松平清康が亡くなると、松平氏を離れて独立し、妻久子は岡崎へ送り返された。1554年今川方の城
となるが、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、再び、松平氏〔松平元康〕に従属し
た。1571年武田信玄が2万3千の兵を率いて伊奈口から三河へ乱入すると、足助城、周辺諸城は全
て落城となり、城代として下条伊豆守が入る。1573年家康の長男信康が足助城を攻略し、鈴木氏が
城主に復帰。1581年「高天神城の戦い」で小原城主鈴木越中守重愛と共に奮戦。1590年5代康
重の時、家康関東移封に伴って移り、廃城となる。康重は関東での処遇に不満を持ち、改易になってい
る。現在は公園、香積寺に変わり、曲輪、堀切、土塁、櫓台が残る。「足助七屋敷の一」


【所感】紅葉の名所「香嵐渓」横に城跡の飯盛山が在ります。1634年香積寺11代三栄和尚が巴川
から香積寺に至る参道にカエデを植えたことに始まり、その後、地元住民によって植え足され、現在に
至っています。香積寺は足助氏、鈴木氏の居館跡地に建立され、山門の両脇には高さ5〜10m程の土
塁が良好な状態で残っています。本堂左手から飯盛山山頂へ続く道が在り、鈴木5代の墓→装束塚→豊
栄稲荷を経て、山頂の主郭手前に三の郭、主郭向こうに二の郭があります。山頂への道は3本在り、健
康のために登っている方もみえます。山麓の香嵐渓、三州足助屋敷周辺はよく整備された観光地で、紅
葉の季節以外でも多くの観光客が訪れて賑わっています。


 

主郭〔写真:左〕石に刻まれた足助氏城跡・主郭〔写真:右〕



二の郭



二の郭東側斜面の堀切



三の郭



三の郭西側の腰曲輪



飯盛山山腹の豊栄稲荷



二条良基の装束を埋めた装束塚



鈴木五代の墓〔忠親・重政・重直・信重・康重:並び順は不明〕

 

飯盛山 香積寺・足助氏居館跡



香積寺山門左手の土塁



香積寺山門右手の土塁



巴川の流れ・香嵐渓

 

足助八幡宮〔写真:左〕足助八幡宮本殿【国重要文化財】〔写真:右〕

 

飯盛山城主足助氏7代足助次郎重範公を祀る足助神社〔写真:左〕忠臣足助氏の石碑・足助神社〔写真:右〕