遠江 犬居城
Inui castle

      犬居城跡【静岡県浜松市天竜区春野町堀之内字犬居】
       瑞雲院【静岡県浜松市天竜区春野町堀之内992】
   後藤モータース【静岡県浜松市天竜区春野町領家167-1】
   仁成堂小沢病院【静岡県浜松市天竜区春野町堀之内11】
天竜高等学校春野校舎【静岡県浜松市天竜区春野町堀之内284】

【立地】山城
【別称】鐘掛城・乾城・鞍掛城

【県指定史跡】

【歴史】築城年は不明。鐘打山・行者山〔標高265m・比高150m〕に築かれた天野氏
の城である。天野氏は、藤原為憲の後裔遠時が伊豆国田方郡天野郷〔伊豆の国市〕に住んで
天野氏を称し、1221年「承久の乱」の功績で山香荘の地頭として犬居へ入部した。鎌倉
時代〔1185~1333年〕、幕府の御家人として活躍、南北朝時代〔1336~139
2年〕、天野景顕は秋葉城〔所在地は不詳〕を本拠に北朝方の遠江守護今川氏に従って各地
で活躍した。南北統一後は在地に土着し、山香荘一円に勢力を伸ばしつつ強力な武士集団を
編成した。特に春野町域は天野一族の他に小土豪が在地したが、今川氏親〔1473~15
26年〕の頃になると、天野景泰は犬居三ヶ村〔犬居・大嶺・平山〕を本拠とし、「東手」
大井川域の川根郷・「西手」天竜川域の瀬尻まで領地を拡大した。今川氏輝〔1513~1
536年〕期、北遠の奥山氏と共に離反。氏輝没後、1536年今川義元〔1519~15
60年〕の家督争い「花倉の乱」で、見付端城に拠る堀越貞延〔反義元派の遠江今川氏〕攻
撃の際、庶子系の天野与四郎・景義・虎景らが参戦して功を挙げた。この後、惣領家の景泰
・元景父子と庶子系の間で対立が続くが、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれ
と、1563年「遠州忩劇」に景泰・元景父子が加わった為、今川氏真から惣領職を取り上
げられ、天野宮内右衛門藤秀にその跡職一円が与えられた。1568年家康の遠江進出の際
、徳川方に属し、1571年武田方へ与し、1574年・1576年2回の攻撃で犬居城落
城、廃城となる。藤秀の子景貫は武田氏を頼り、1582年武田家滅亡後、北条氏に属した
。1985年県指定史跡となり、現在は曲輪、横堀、竪堀、土塁、堀切が残る。


【所感】二俣から国道362号線を北上し、天竜川の支流気田川に架かる新秋葉橋を渡った
最初の信号交差点〔春野ふれあい公園・後藤モータースの交差点〕を後藤モータース方面へ
右折します。250m程進んだ小沢仁成病院前の「犬居城跡入口」碑が立つ丁字路を左折。
道成りに500m程進むと、左手に「犬居城址0.6km(25分)」の標柱が在り、ここが
登城口になります。緩やかな坂道から徐々に急坂になり、途中、右へ折り返して、再び坂道
を上ります。最後、左へカーブすると、最初の遺構が馬出しを囲む三日月堀、馬出し入口は
土橋、馬出しから二の曲輪・本曲輪へ向かう道も土橋になっています。鐘打山曲輪(物見曲
輪)へ繋がる道は曲輪と思っていましたが、どうやら幅広の大土塁らしく、本曲輪と二の曲
輪はこの大土塁の北側に並んでいるようですが、現在は雑木林で、写真どころか目視でも確
認し辛くなっています。本曲輪・二の曲輪の北側に一段下がって横堀が走っており、馬出し
入口の西側辺りから入って確認出来ます。この城の最高所となる鐘打山曲輪には「望楼」と
呼ばれる展望台が有り、眼下に気田川、遠州と信州を繋ぐ街道がよく見える場所となってい
ます。様々な縄張り図を見比べて見ると、本曲輪と二の曲輪の場所が定まらないところがあ
り、地理的・歴史的に意味のある城であることは感じられます。犬居城跡南東麓、登城口横
の茶畑(登城口近く)は熱田平と呼ばれ、天野氏の居館跡ではないかと言われています。




犬居城跡入口



犬居城跡遠景と熱田平〔天野氏居館跡か〕





登城口











登城道



東曲輪



馬出しを囲む三日月堀



馬出しへ入る土橋



馬出し



馬出し→二の曲輪方面に向かう土橋



犬居城跡北端の横堀



二の曲輪・雑木林



本曲輪・雑木林





犬居城跡南端の大土塁





望楼



望楼から見た鐘打山曲輪〔物見曲輪〕



望楼から見た景色・鐘打山曲輪〔物見曲輪〕



犬居城西端の大堀切



瑞雲院【市指定史跡】



犬居城主天野氏之墓・瑞雲院【市指定史跡】