陸奥 石巻城
Ishinomaki castle
石巻城跡・鹿島御児神社【宮城県石巻市日和が丘2丁目1−10】
石巻市震災遺構門脇小学校【宮城県石巻市門脇町4丁目3−15】
【立地】丘城
【別称】日和山城・匏ヶ城・葛西城
【歴史】築城年、築城者は定かではない。日和山〔標高61m、比高55m〕に築かれた丘
城である。鎌倉時代、葛西清重が築き、代々葛西氏の居城であったと伝えるものが多い。葛
西清重は豊島清光の三男で、下総の葛西を領して葛西氏を名乗り、葛西氏の祖となった。1
189年源頼朝の奥州攻めで功を挙げ、陸奥国気仙・江刺・胆沢・磐井・牡鹿・本吉を得て
奥州総奉行として戦後処理を行った。平泉藤原氏の残党による大河兼任の乱が鎮圧され、奥
州地方の状況が安定すると、鎌倉に出仕し、その後、奥州に下った形跡が無い。奥州の所領
は一族か代官によって支配されたと思われる。2代清親−3代清時も鎌倉に居たことは明ら
かで、奥州に移住し、石巻城を築いたのは4代清経・5代清宗と推測される。清経は平泉別
当顕隆と土地相論をやっており、5代宗清は中尊寺・毛越寺と所領を争っている。また5代
清宗と6代清貞は南北朝の争いで南朝方に付き、陸奥国司北畠顕家の奥州勢の主力となった
。葛西氏はその後も勢力を拡大し、大崎氏・伊達氏と並ぶ東北地方の有力な大名となり、3
5万石を領有することになる。15代時胤の時、寺池城の小野寺道茂を一関城に移し、15
36年居住地を石巻→登米郡寺池に移したと云われる。17代晴信の時、豊臣秀吉の「小田
原征伐」に参陣しなかったことで、1590年8月所領を没収された。現在は神社・公園と
なり、発掘調査で土塁、空堀、掘立柱建物跡が見付かっている。
【所感】今は埋め立てられて川からも海からも距離がありますが、往時は海に張り出した丘
だったと思われます。神社境内が城であったことは発掘調査で明らかになっていますが、北
方が何処まで城域であったのかは分からないようです。

石巻城跡の看板

石巻城址碑




鹿嶋御児神社

鹿嶋御児神社南東の段地

鹿嶋御児神社参道
