筑前 岩屋城
Iwaya castle
岩屋城跡【福岡県大宰府市観世音】
四王寺県民の森【福岡県糟屋郡宇美町四王寺207】
【立地】山城
【歴史】天文年間(1532〜1555年)、宝満山城の支城として岩屋山山頂〔標高28
1m〕に高橋三河守鑑種が築いたとされる。鑑種の祖は高祖山城主原田氏の分流で、原田泰
種の次男が筑後国御原郡高橋を本拠としたことから高橋氏を名乗り、1335年高橋光種は
仁木義長・一色範氏と共に足利尊氏より九州の検断職に任ぜられた。豊後大友氏の勢力は徐
々に拡大し、9代大友親世の代になると、九州の諸士は軍門に降り、高橋家もその一豪族と
して存続した。天文年間(1532〜1555年)、7代高橋長種が無嗣子で死去した為、
大友義鑑〔宗麟の父〕は一万田左京大夫親敦の子右馬助に高橋家を継がせ、高橋三河守鑑種
と名乗った。同じ頃、毛利元就の勢力拡大に備え、大友義鑑は筑前の立花山城に大友〔立花
〕鑑載を置き、高橋鑑種も宝満山城、岩屋城に入った。しかし、1550年2月義鑑が横死
して義鎮〔宗麟〕の代になると、暴君の専制政治に嫌気が差した北九州の大小領主は、毛利
氏に近付き、大友氏に背く者が現われた。更に義鎮〔宗麟〕は高橋鑑種の兄一万田弾正親実
の妻を得る為、親実を殺害する事件が起こる。これ以後、鑑種は秋月種実と結び、1567
年反大友を旗挙げ、筑紫広門が与し、1568年立花義載も加わり、豊前・筑前はほぼ毛利
方となった。大友宗麟〔義鎮〕は戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理らの軍勢を筑前に派遣して
立花山城を落とし、1569年高橋鑑種は軍門に降った。鑑種は毛利氏の支配下にあった小
倉城へ入った為、1570年宗麟は高橋の名跡を吉弘鑑理の次男弥七郎鎮理〔高橋主膳兵衛
尉鎮種(紹運)〕に継がせ、岩屋城・宝満城を護らせた。天正年間(1573〜1592)
に入ると島津氏の征討軍が動き出し、1578年11月「耳川の戦い」で宗麟勢を破って大
友領に侵入。1584年3月肥前国島原において龍造寺隆信を敗死させ、筑後を傘下に収め
て筑前に迫った。島津方は島津義弘軍5万、軍門に降った秋月・龍造寺らの軍勢を加えて1
0万の兵で侵攻。筑紫広門を降して大宰府観世音寺に着陣し、岩屋城を包囲した。1586
年7月初旬、島津軍の包囲網に対し、高橋紹運の岩屋城は護りが固く、7月14日島津軍の
総攻撃が始まる。大軍の猛攻に耐え、半月にも及ぶ籠城の末、27日に至って高橋紹運以下
763人全員が壮烈な討死を遂げた。しかも誰一人逃亡者は無かったと云う。宝満山城の次
男高橋統増〔直次〕は岩屋城落城後に開城し、島津軍は北上して立花山城の攻略に掛かるが
、城主立花宗茂に阻まれ、1587年秀吉の九州上陸の報を受けて退却した。岩屋城・宝満
山城は島津氏に属した秋月種実が預かり、島津軍の後方陣地となったが、宗茂の追撃戦で落
城し、廃城となった。林道の建設により消失している箇所もあるが、現在は曲輪、土塁、堀
切が残る。
【所感】岩屋城跡までの道が通行止めになっている為、「四王寺県民の森」から「焼米ヶ原
駐車場」まで車で行き、車道を600m程下ったガードレールの切れ目から城跡へ入りまし
た。少し歩くと大小の浅い堀切が有り、やがて丸太段の場所に出ます。右の丸太段から左の
V溝が本丸北側の堀切になります。大堀切を横切って正面の丸太段を上ると、見晴らしの良
い本丸ですが、堀切側に土塁はを堀切を更に深くしています。本丸は人が多く収容出来る広
さではありません。本丸南側に長い腰曲輪が在りますが、車道が造られたことで、その下に
幾つ腰曲輪が連なっていたか分かりません。「高橋紹運公並びに勇士の墓」の場所が二の丸
になりますが、縄張り図を見ると、二の丸の奥に幾つかの腰曲輪が続き、大竪堀、大土塁が
有るようです。時間の関係で全ての遺構が確認出来なかったことが残念です。
岩屋城近道の標柱
本丸北側の大堀切
嗚呼壮烈岩屋城址の石碑・本丸
本丸
本丸北端の土塁
本丸南側の腰曲輪
岩屋城跡(本丸跡)の看板
二の丸