三河 岩津城
Iwazu castle
岩津城跡【愛知県岡崎市岩津町東山】
岩津天満宮【愛知県岡崎市岩津町東山53】
信光明寺【愛知県岡崎市岩津町東山47】
岩津保育園【愛知県岡崎市岩津町東山29-2】
若一神社【愛知県岡崎市岩津町壇ノ上23】
万松寺【愛知県岡崎市滝町松谷30】
【立地】平山城
【国重要文化財】信光明寺観音堂
【市指定史跡】
【松平宗家】親氏 ― 泰親 ― 信光 ― 親忠 ― 長親〔長忠〕 ― 信忠 ― 清康 ― 広忠 ― 家康
【岩津松平家】親長
【歴史】1426年頃、松平宗家2代泰親・3代信光〔1404~1488年7月22日〕
が岩津郷主中根〔岩津〕大膳から岩津城を買収し、1429年松平より移住。松平宗家3代
信光の子松平親長を惣領とし、岩津城周辺に親則・光則・信守・長勝・親勝・算則・常蓮を
置き、岩津七城と称された。更に大給の乗元・安城の親忠・竹谷の守家・形原の与副・能見
の光親・牧内の親正・宮石の光央・細川の親世・鴛鴨の親光など、西三河各所に息子らを住
まわせ、勢力の安定を図った。一説には信光は48人の子いたと云う。松平宗家2代泰親の
子には教然良頓・益親の2人が確認されており、益親の子に勝親がいた。1465年「額田
郡牢人一揆」の際、反幕府軍の丸山中務入道、彦次郎父子、大場〔大庭〕二郎左衛門、簗田
左京亮らが額田郡の井口砦に立て篭もった。幕府は初め、牧野出羽守、西郷六郎兵衛に討伐
を命じたが、逃亡した為、松平宗家3代信光、戸田弾正左衛門宗光父子に命じ、討伐したと
云う。1471年頃、松平宗家3代信光は和田親平の安祥城を攻略し、拠点を安祥城へ移し
た。その後、直ぐに岡崎城も奪取している。1506年頃、今川方の伊勢宗瑞〔後の北条早
雲〕軍が三河へ侵入し、七城は落城となったが、安祥松平家長親〔長忠〕の援軍により、そ
れ以上の三河侵攻は阻止された。天文年間(1532~1554年)、三木松平家初代信孝
が岩津を横領する事件があったが、1584年明大寺耳取繩手で松平宗家8代広忠軍に討た
れた。家康が一度、改修を行っているが、廃城年は不明である。現在は曲輪、土塁、空堀、
土橋などが残る。
【所感】岩津天満宮の東名高速道路を挟んだ西側の山が岩津城跡になります。高速道路が出
来る前は、天満宮と岩津城は山で繋がっていたそうです。登城口に歴史看板が立っています
。とにかく状態が良いことに驚きました。特に馬出し-主郭間の土橋、その両側にある深い
空堀は圧巻です。主郭の虎口脇に在る土塁もしっかり残り、私のような素人でも縄張図が書
けそうなくらいです。岩津城跡の南に1451年信光建立の信光明寺が在り、こけら葺きの
屋根が立派な観音堂は国重要文化財に指定されています。また、観音堂裏手の墓地に松平三
代〔初代親氏・二代泰親・三代信光〕の墓所も在ります。他にも信光ゆかりの寺社として、
1440年信光建立の万松寺〔岡崎市滝町〕、1426年信光建立の若一神社〔岡崎市岩津
町〕などが在ります。
岩津城跡遠景
主郭
岩津城址の石碑・主郭
主郭の土塁
主郭側から見た虎口
主郭-馬出し間の土橋
土橋手前の馬出し
岩津城址の看板と登城口〔写真:左〕以前の岩津城址の看板の場所〔写真:右〕
登城口への道〔写真:左〕登城口への入口〔写真:右〕
岩津天満宮
信光明寺観音堂【国重要文化財】
信光明寺本堂〔写真:左〕松平三代墓所・信光明寺〔写真:右〕
成瀬政直公の墓碑・信光明寺〔写真:左〕1426年松平宗家3代信光建立の若一神社〔写真:右〕
万松寺〔写真:左〕松平宗家3代信光公の墓塔・常盤小学校西通用門の西〔写真:右〕