伊豆 長浜城
Nagahama castle

      長浜城跡【静岡県沼津市内浦長浜・重須】
長浜釣堀観光センター【静岡県沼津市内浦長浜174−6】
  三の浦総合案内所【静岡県沼津市内浦長浜83−124】

【立地】平山城〔海城〕
【別称】重須城

【国指定史跡】長浜城跡

【歴史】築城年は不明。三方を海に囲まれた城山〔標高31m、比高29m〕に築かれた水
軍の城である。城の本格利用は1400年代後半とされ、在地土豪大川兵庫助と住民が守っ
ていたと云う。同盟関係にあった北条氏と武田氏は、1579年武田勝頼が伊豆国境近くに
三枚橋城〔沼津〕を築いたことで関係は破綻する。北条氏は伊豆支配の拠点韮山城の守りを
固める為、沼津→伊豆に至る道の支城を整備、更に水軍強化のために長浜城も改修、軍港を
造り、城に梶原備前守景宗を置いた。1580年武田勝頼が浮島原に出陣し、北条水軍と駿
河湾海戦、1581年武田水軍の将小浜伊勢守が久龍津〔久料〕で北条水軍と戦った。15
82年「天目山の戦い」で武田氏が滅亡し、武田氏との交戦は無くなったが、1589年豊
臣秀吉が北条氏直に宣戦布告、北条氏は韮山城の大藤与七に足軽80人を長浜城へ配備する
ことを命じた。1590年2月27日豊臣水軍が清水に到着、大川氏が長浜城に立て籠もっ
た。3月29日秀吉軍は山中城・韮山城を攻撃、4月1日下田城を攻撃、6月韮山城は開城
、7月北条氏直は秀吉に降伏した。長浜水軍の出番も無く、廃城となる。下って、1937
年三井家の別荘として利用されたが、1965年以降は利用が減少、荒廃。1985年より
遺構調査が始まり、1588年国指定史跡。2015年史跡公園として遊歩道や櫓などが整
備が完了し、現在は曲輪、土塁、堀切、竪堀などが残る。


【所感】三の浦総合案内所から県道17号線を400m程西進、右手の看板「釣堀」「長浜
城跡見学者駐車場入口」の場所を入ると、左手にトイレ・長浜城跡のパネル・弁財天の鳥居
・長浜城跡碑、そして、長浜釣堀観光センターの前に「P」が在ります。登城口は長浜城跡
碑が在る場所で、木製の階段に始まり、途中で左折すれば第四曲輪、道なりに最後まで登る
と第三曲輪〔弁天社〕に着きます。長浜城跡は第一曲輪〜第四曲輪まで横に並ぶ連郭式城郭
で、第一曲輪から90度北に折れて曲輪A〜Dが一直線に並び、主要な曲輪がL字型に配さ
れています。L字の内側にも小さな曲輪E〜I〔入れない〕が存在し、第一曲輪の北・西に
も曲輪が在りました。第一曲輪〜第四曲輪までの各曲輪間に堀切、曲輪の陸側に土塁が設け
られていました。発掘調査により建物跡に丸太が立ち、第二曲輪の端に櫓と曲輪Aと繋がる
木橋が再現されています。多くの説明看板が設置され、遊歩道も充実しているので、遺構の
現況を納得しながら歩くことが出来ます。








登城口







登城道



第四曲輪−第三曲輪間の堀切



第四曲輪



第二曲輪−第三曲輪間の大手虎口/堀切







第二曲輪虎口





第二曲輪



第二曲輪−第一曲輪間の堀切







第二曲輪−第一曲輪間の櫓







第一曲輪



第二曲輪と曲輪Aを繋ぐ木製通路



曲輪A



曲輪B



曲輪C



曲輪D



曲輪A−C



曲輪A−曲輪K間の遊歩道



曲輪K



第二曲輪に繋がる竪堀





安宅船原寸大模型・田久留輪



発掘調査で見つかった石積み・田久留輪