伊勢 鹿伏兎城
Kabuto castle

鹿伏兎城跡【三重県亀山市加太市場】
  神福寺【三重県亀山市加太市場1718―2】

【立地】山城
【別称】牛谷城・白鷹城・加太城

【県指定史跡】

【歴史】1367年、牛谷山〔標高263m、比高110m〕に築かれた鹿伏兎氏の居城で
ある。1333年北条氏滅亡に伴って関東から移った関四郎盛政は、南朝方の伊勢守護仁木
義長討伐の功により、1360年室町幕府から鈴鹿・阿曲2郡を賜り、領土を5子に分配し
て関一族の基礎を固めた。盛政の四男盛宗は、正平年間(1346〜1370年)頃、鹿伏
兎谷を与えられ、讃岐守を名乗り、鹿伏兎氏の祖となる。盛宗の子左京亮定俊は牛谷山に牛
谷城を築き、南麓に菩提寺神福寺を創建した。鹿伏兎氏は、盛宗−定俊−忠賀−忠業−定孝
−定則−定好−定長−定秀−定義と200余年に亘り、鹿伏兎谷を領した。7代定好の時、
牛谷城を修築して「鹿伏兎城」と改名、1542年8代定長の時、将軍足利義晴に白鷹を献
上して「白鷹城」とも呼ばれた。鹿伏兎氏は関氏宗家と行動を共にすることが多く、伊勢国
司北畠満雅が幕府に対して挙兵した1415年・1428年の乱では北畠氏に与している。
1568年織田信長は神戸家と和睦し、三男を神戸信孝として養子に入れ、関一族は織田氏
に属したが、1570年「姉川の戦い」では定秀が浅井長政を助けて討死している。158
3年9代定義は豊臣秀吉の軍勢に敗れ、鹿伏兎城を捨てこの地を去った。現在は曲輪、石垣
、土塁、井戸が残る。

【所感】私はJR関西本線加太駅に駐車し、神福寺から国道25号線を西へ500mの「故
陸軍…君碑」「加太宿」碑横の畔道から登りました。たまたま溜池近くで下山者から話を聞
くことが出来、溜池の手前から左右に分かれて西と東のコースがあることを知りました。と
りあえず、行きは下山者がお勧めする緩やかな傾斜の西コース、帰りは東コースで下山する
ことにした。溜池の手前から左奥へ進むと、西コースの登城道に合流しますが、本来の西コ
ースは池よりもっと手前から左に上り、石仏辺りからスタートします。石仏を目印に道成り
に右へ右へ登って行きます。最後の石仏が東コースとの合流点で、石仏背後から北の尾根へ
下って進みます。ここから細い尾根道を暫く歩き、最後の登りで石垣が見えて来ます。長さ
は17m、川原の石を積み上げたような石垣です。右に折れ、虎口の正面に三角曲輪、更に
右に折れると最も広い曲輪1、その奥に曲輪2・曲輪3と並びます。曲輪3に井戸が残り、
土塁は三角曲輪・曲輪1に築かれ、曲輪2や曲輪3には有りません。3つ曲輪は南側が壁の
ように高く、南方が全く見えない為、トップを削平して南西尾根〔登城道〕の監視を曲輪A
、曲輪Bは南尾根の監視の為に築かれたものと思われます。長年、神福寺が鹿伏兎〔加太〕
氏の居館と言われてきましたが、国道25号線改良前の発掘調査や昭和30年代以前の資料
から、居館は私が登った登城口付近に在ったようです。寺の裏山から過酷な急斜面を登って
も、辿り着く先は曲輪B。私が登った登城道は居館と城の大手〔石垣の場所〕を繋ぐ危なげ
ない道。途中、JR関西本線を横切りますが、私はこの登城道をお勧めします。










鹿伏兎氏菩提寺 神福寺



鹿伏兎城跡登城口

 

 



 



ため池までの登城道

 

西コース登城道@             東コース登城道@

 


西コース登城道A             東コース登城道A

 

西コース登城道B             東コース登城道B

 


西コース登城道C             東コース登城道C

 

西コース登城道D             東コース登城道D

 


西コース登城道E             東コース登城道E

 

西コース登城道F             東コース登城道F

 


西コース登城道G             東コース登城道G



西コース×東コース登城道交差ポイント













城跡までの登城道



虎口手前の石垣



外枡形虎口の土塁



虎口に立つ城跡看板



虎口を入って左手の三角曲輪



虎口側から見た曲輪1



曲輪2側から見た曲輪1



曲輪1西端(石垣の上)の土塁



曲輪1東端の土塁



曲輪1の奥〔東隣り〕一段低い曲輪2



曲輪2の奥〔東隣り〕若干低い曲輪3



井戸跡・曲輪3





曲輪1の南隣り最高地の曲輪A・牛谷山263m



南尾根の長い曲輪B