薩摩 鹿児島城
Kagoshima castle
鹿児島城跡【鹿児島県鹿児島市城山町】
鹿児島県歴史資料センター黎明館【鹿児島県鹿児島市城山町7−2】
鹿児島県立図書館【鹿児島県鹿児島市城山町7−1】
【立地】平城
【別称】鶴丸城・府城・御館
【県指定史跡】
【歴史】1601〜1604年島津忠恒〔義弘の子〕の築城とされる。1600年「関ヶ原
の戦い」で島津義弘〔島津義久の弟〕は西軍に与して敗れ、敵陣突破で逃げ切り、義弘は桜
島に蟄居となった。島津氏は強固な軍事体制を布いて家康の来攻に備える一方、義久を前面
に押し立てて謝罪外交に徹した。1602年家康からの領国安堵と義弘助命の誓書を受け取
り、伏見城で家康と忠恒〔義弘の子〕が面謁して、旧領薩摩・大隅・日向を取り戻した。忠
恒は家康の偏諱を許されて「家久」と改め、初代藩主となり、城山〔上山城〕の麓に館造り
の鶴丸城を築いて居城とした。1609年家康の許可を得て琉球へ出兵、勝利。奄美大島は
蔵入地となり、沖縄諸島を琉球国司領とし、進貢貿易を利用して中国と貿易を行った。16
34年藩の石高は薩摩・大隅・日向国60万5000石余+琉球諸島12万3700石=7
2万9000石余となる。1610年2代光久が襲封。「万治内検」を行い、新田開発・金
山開発・殖産の拡充に努め、財政基盤の強化を図った。1687年3代綱貴が家督を相続、
元禄の奢侈禁止令、1696年鶴丸城焼失、1698年薩摩藩高輪邸の類焼、薩摩藩芝邸の
火災、寛永寺の御手伝普請などにより財政は窮乏。1701年倹約令を出して緊縮財政を試
みたが、藩債は34万5000両に達し、家老以下の役料を半額とした。1704年4代吉
貴が継承、幕府に倣って藩制度を整備したが、度重なる自然災害や参勤交代などが大きな負
担となり、藩財政は危機的な状況となった。1721年5代継豊が襲封、1729年5代将
軍綱吉の養女竹姫の輿入れで更に藩財政は圧迫される。1746年6代宗信は率先して質素
倹約を励行し、家中の行動習慣も変わったと云う。宗信は在封3年で嗣子無く没した為、1
749年弟の久門が「重年」と改め、7代藩主となった。1753年幕府より鹿児島藩が木
曽三川治水工事を任され、1藩のみで工事に従事。1754年2月着工、3国に跨る100
キロ超えの大工事となり、当初の見積り10万両に対し、1755年3月竣工時には40万
両に膨れ上がっていた。この工事で89人が亡くなり、平田氏は総奉行の責任を取って自刃
した。7代藩主重年が没し、1755年8代藩主重豪襲封時、木曽三川治水工事の負債22
万両を加え、藩債は88万両に達していた為、徹底した緊縮政策を行うが、それも実らなか
った。1773年藩校造士館・演武館、1774年医学館、1779年明時館〔天文館〕を
設立、重豪は藩士の教化に努めた。重豪の娘茂姫が一橋家斉に嫁ぎ、1787年家斉は11
代将軍に就任。重豪は将軍を婿とする立場になり、43歳で隠居、斉宣が9代藩主を継ぎ、
重豪が後見人となった。1788年幕府より毎年5万両の用金を4年に亘って命ぜられ、藩
財政は逼迫して行く。斉宣は藩政改革を行うべく樺山久信・秩父李保を家老に登用、重豪時
代の重臣を追放してその政策を改廃した。重豪はこれに激怒し、樺山・秩父ら13人を切腹
させ、25人を遠島、100人以上を逼塞・役免等に処分した。1809年斉宣の子斉興が
継ぎ、重豪が後見人となったが、藩債500万両に膨れ上がり、1827年側用人の調所笑
左衛門広郷に財政再建に当たらせた。調所は大坂・京都・江戸の貸主に250年賦、無利子
償還という借金で藩債を整理し、国許の債権者は士分に取り立てることで、借金を帳消しに
する一方、琉球貿易の拡大や国産品の専売制によって収奪を強化して250万両の備蓄を確
保した。1848年調所氏は江戸藩邸で自害、1851年11代藩主斉彬が襲封。斉彬は曽
祖父重豪の影響から開明的な政策を取るようになり、反射炉・溶鉱炉・大小銃砲弾薬・洋式
造船所・ガラス・ガス灯・電信機・写真撮影・和欧文活字製作など、日本の近代工業の先駆
者となった。1858年久光〔斉興と側室お由羅の子〕の子忠義が12代藩主となり、斉興
が後見人となったが、1859年斉興が亡くなると、久光が藩政を補佐した。1860年「
桜田門外の変」の後、討幕急進派が台頭し、1862年伏見寺田屋で義拳を図ったが、これ
を察知した久光は公武合体の立場から、これらを抑える為に寺田屋事件を起こした。過激派
を制した帰途、「生麦事件」を起こしたことがきっかけで、1863年「薩英戦争」が勃発
、攘夷の継続が無益であることを痛感した鹿児島藩は、進んで西洋文明を吸収しようという
藩論が醸成されて、1865年我が国最初の海外留学生がイギリスに派遣された。久光は藩
論が討幕に傾いた時、沖永良部島に流された西郷隆盛が召喚されて藩の舵取りを委ねられた
。1866年坂本龍馬の周旋によって薩長同盟が結ばれ、両藩を主力とした討幕が加速した
。1867年10月薩長両藩に討幕の密勅が下され、12月王政復古の大号令となった。討
幕を主導した鹿児島藩は、戊辰戦争中、久光によって藩政改革に着手したが、1869年版
籍奉還、1871年廃藩置県となった。現在は歴史資料センター、図書館、美術館などが建
ち、石垣、堀、土橋などが残る。2006年日本100名城に選定。
【所感】せっかく鹿児島まで来たのに1日目は雨、2日目は時間が無い中、かろうじて本丸
辺りだけ撮ることが出来ました。現在、本丸は城山町7の鹿児島県歴史資料センター黎明館
、二の丸が城山町7の鹿児島県立図書館+城山町6+城山町5+城山町4+城山町3+城山
町2、役所曲輪は城山町1、厩曲輪は城山町8になり、曲輪ごとに番地で区別されています
。次回はしっかり時間を設けて、背後の城山も含めてゆっくり再訪したいと思います。
鶴丸城跡の石碑と大手橋
大手橋から見た御楼門跡
御楼門の枡形虎口
北御門の土橋から見た水堀
本丸北東隅の入隅石垣(鬼門除け)
本丸東面の石垣と水堀
二の丸東面の石垣
二の丸矢来御門跡
薩摩義士碑