三河 金谷城
Kanaya castle
金谷城跡【愛知県豊田市金谷町1丁目・3丁目】
勝手神社【愛知県豊田市金谷町1丁目116】
愛知県豊田加茂建設事務所【愛知県豊田市常盤町3丁目28】
豊田勤労福祉会館【愛知県豊田市錦町1丁目21】
長興寺【愛知県豊田市長興寺1丁目29】
【立地】丘城
【別称】挙母城・衣城
【歴史】1308年、比高10mの台地端に三河国高橋荘地頭中条出羽守景長の築城とされ
る。父中条頼平没後、所職を継ぎ、衣城留守居役は中条家老臣の近藤孫九郎延政が務めた。
1335年「矢作川の合戦」の際、三河守護足利家臣高師泰の幕下に従って新田義貞軍と対
戦したが、負傷・落馬して不具となり、地頭職を弟の中条備前守秀長に譲ったと云う。2代
秀長は、1336年頃〜1338年頃、尾張守護として活躍し、守護を辞してから足利尊氏
・直義兄弟に仕え、1358年高橋荘地頭職を兄景長の子長秀の嫡男中条出羽守秀孝に伝領
。1357年秀孝は衣城主となり、足利義詮・義満に仕え、1369年秀孝の子中条伊豆守
詮秀に継がれた。1411頃、出家して沙弥祐詮を号し、その後、将軍義教の忌諱〔永享の
変〕に触れ、高橋荘の所領没収、1432年申し開きの上洛途中、尾張で自刃した。5代城
主は子の満秀であったが、1412年父満秀に先立って没しており、中条家惣領は弟の満平
が継承、高橋荘は一色氏・吉良氏に分給、中条氏と高橋荘の関係は一時中断する。1475
年中条満平の子中条出羽守秀章が6代城主として復帰。1493年秀章は松平宗家4代親忠
と対立。「井田野の戦い」で伊保城主三宅加賀守清宜・寺部城主鈴木日向守重辰・八草城主
那須惣左衛門・上野城主阿部孫次郎ら五軍4000の兵で戦い、敗北する。1532年中条
出羽守常隆が7代城主となるが、1533年松平清康との戦に敗れ、1549年今川義元の
東条衆の来襲、1558年松平元康の来襲、1561年織田信長勢の来襲に敗れ、終に御立
村の森豊後守の居館へ逃れ、ここに中条氏の支配が終わる。その後、信長の家臣佐久間信盛
が入り、1568年信盛の与力余語久三郎正勝が寺部城とともに支配した。1583年余語
正勝は信長の一周忌に狩野元秀に画かせた「信長の画像」を長興寺に納める。その後、熊谷
大膳亮重長−原隠岐守勝胤〔長頼・政茂〕が城主を務め、1614年廃城となる。現在は竹
林、畑地、住宅に変わり、石碑〔勝手神社〕、曲輪、堀、土塁が残る。
【所感】名鉄三河線上挙母駅北150m程の勝手神社に石碑が在ります。子供の頃、隣町に
住んでいて、一度だけ城跡の竹薮に入ったことがあります。薄気味悪い竹薮に感じてました
が、まさか大人になって再びこの竹薮へ来るとは思いませんでした。城跡東側の豊田勤労福
祉会館から全体が見えます。豊田加茂建設事務所南の線路沿いの小道を上挙母方面へ歩いて
竹薮内へ入ります。右手の竹薮と民家に囲まれた畑地が曲輪U、竹嶋明神・高木稲荷社・名
鉄三河線線路・竹薮が曲輪T、竹藪の小路を進んだ左手の下り坂〔鉄橋への道〕が曲輪T−
曲輪Vを分断する空堀になります。この空堀の南側が曲輪Vで、畑地・住宅・名鉄三河線線
路になっています。曲輪内を電車が通る珍しい城跡ですが、曲輪Tは鉄道敷設作業の際に大
きく土取りをした可能性が高く、遺構の判断が難しい状態になっているのが残念です。

曲輪Tの中央を走る名鉄三河線

曲輪Tの西側を通る竹藪の小路〔写真:左〕曲輪V−曲輪T間の空堀〔写真:右〕

曲輪U・畑地〔写真:左〕曲輪V・畑地〔写真:右〕

曲輪Vの中央を走る名鉄三河線〔写真:左〕中条家の氏神として建立された勝手神社〔写真:右〕

金谷城址の石碑・勝手神社

織田信長公の肖像画で有名な長興寺〔写真:左〕金谷城主中条備前守秀長公の墓・長興寺〔写真:右〕
