駿河 蒲原城
Kanbara castle
蒲原城跡【静岡県静岡市清水区蒲原】
善福寺【静岡県静岡市清水区蒲原3817−4】
【立地】山城
【市指定史跡】
【歴史】築城年、築城者は定かではない。道城山〔標高137m・比高127m〕に築かれ
た山城である。南北朝時代〔1336〜1392年〕、今川範国〔?〜1384年〕が駿河
守護に命ぜられると、範国の三男氏兼が蒲原氏を名乗り、蒲原城の築城、あるいは居城を修
復したと云われる。その後、今川・北条・武田氏と領主が変わる度、城代・城番も変わった
。天文年間〔1532〜1554年〕は飯尾豊前守・二俣昌長・原六郎等が城番、永禄年間
〔1558〜1569年〕朝比奈千代増・佐竹又七郎・佐竹雅楽助高貞が在番。1568年
武田信玄が駿河に入り、蒲原城も武田氏の手に落ちたが、1569年正月北条氏康・氏政父
子の攻略により落城。蒲原城に北条新三郎を入れ、城を改築が行われ、北条氏の駿河最前線
の城として機能した。他にも、弟の箱根少将長順や狩野新八郎・清水太郎左衛門・新田又八
郎・引野大膳・上原甚太郎・上原甚三郎・大草右京・大草右近・石巻弥三郎・渡辺豊前守・
二見右馬介らも護った。同年12月信玄は蒲原城奪還を企て、本隊を本栖街道から大宮・岩
本を経て、城を包囲、落城。北条新三郎は常楽寺に逃げ、寺を放火、自害した。その後、山
県三郎兵衛昌景が庵原郡一帯を領有して江尻城主となり、1582年武田氏が滅亡するまで
、当地の土豪・地侍による「蒲原衆」が治めた。1590年「小田原征伐」の際、家康は着
陣したのを最後に廃城となる。現在は山林、神社、畑地になり、曲輪、堀切、土塁が残る。
【所感】県道396号線善福寺入口信号交差点を北上、旧東海道を横切り、東名高速道路を
潜り、S字カーブを上り切ると左手に「駿河国蒲原城」の看板とともに駐車場が在ります。
こちらが搦手口、城山の南側が大手口になります。地元の方の話では大手口側の登城道を管
理する人が途切れ、台風等で道が崩落して危険とのこと。現在は整備された搦手の道のみと
なっています。城は北から善福寺曲輪−本曲輪−二の曲輪−三の曲輪と並ぶ連郭式の縄張り
ですが、二の曲輪・三の曲輪は個人所有の土地なのか、曲輪へ容易に入ることは出来ません
。見所としては本曲輪−善福寺曲輪間の大堀切、善福寺曲輪の土塁、善福寺北側の腰曲輪で
しょうか。善福寺北側の腰曲輪は2段在ります。各腰曲輪の外側に土塁が見られますが、城
跡整備の際に築かれたとも言われているので、遺構かどうか不明です。また同地に遊歩道に
沿って綺麗な石積みが見られますが、これも不明です。蒲原城跡と谷を隔てた東側の尾根に
狼煙場と呼ばれる場所が在ります。善福寺横から車で入り、駐車場も有ります。出丸のよう
な広い場所に展望台・トイレが設けられ、桜・躑躅が植わっています。この場所は、城から
確認出来ない富士川・愛鷹山方面が一望出来、東方からの来攻を見張るには打ってつけの場
所です。蒲原城跡とセットがお勧めです。
搦手口の看板
善福寺曲輪へ向かう登城道
善福寺曲輪東側の腰曲輪
善福寺曲輪北側の腰曲輪
善福寺曲輪
善福寺曲輪西端の土塁
善福寺曲輪南端の土塁
善福寺曲輪東端に並ぶ逆茂木の模型
善福寺曲輪入口
本曲輪−善福寺曲輪間の大堀切
大堀切から西へ落ちる竪堀
本曲輪へ向かう登城道
本曲輪・城山八幡宮
本曲輪から見た蒲原の街と駿河湾
大手口の看板
狼煙場の展望台・御殿山公園狼煙場
展望台から見た公園内と駿河湾・御殿山公園狼煙場