伊勢 枳城
Karatachi castle

枳城跡【三重県松阪市小阿坂町】
浄眼寺【三重県松阪市大阿坂町1180】

【立地】山城

【国指定史跡】阿坂城跡(附高城跡、枳城跡)

【歴史】築城年、築城者は定かではない。大日山〔標高184m、比高110m〕山頂に築
かれ、阿坂城跡の南東1キロに位置する。枳城・高城ともに阿坂城の出城と云われる。13
35年北畠親房は顕信・顕能・顕雄三子を伴って伊勢に入り、南北の伊勢平野が一望出来る
阿坂山〔現:枡形山・標高312m〕に城を築いたと云う。1415年北畠顕泰の次男満雅
は軍を率いて木造城を落城させ、これを従弟の雅俊に護らせ、大河内城を弟顕雅に護らせた
。更に坂内・多芸・田丸の諸城一族郎党を配し、南勢方の伊勢国司北畠満雅は阿坂城に籠っ
た。北勢方の足利義持軍が再三に亘って攻撃しているが、容易に落とせなかったと云う。そ
の際、北勢方は断水を仕掛けるが、馬の背に白米を流して水があるように見せ付け、敵を欺
いて撃退したことから、白米城とも呼ばれる。満雅の後、北畠氏の家臣大宮氏代々の居城と
なったが、1567年織田信長は国司家と北勢工藤家の不和を知り、家臣の滝川一益に北勢
を攻めさせた。その後、幾度の失敗の末、1569年信長自らが7万余騎を率いて岐阜から
伊勢へ入り、先鋒の木下藤吉郎軍が当城を包囲。阿坂城主大宮入道含忍斎は降伏に従うこと
なく堅固に城を護ったが、藤吉郎の巧妙な策で開城となった。この時、藤吉郎は大宮大之丞
吉行が放った矢で左腿を傷め、これが初めての戦傷とも伝わる。現在は曲輪、堀切が残る。

【所感】この山は2つの頂を持ち、西の頂が枳城跡です。東麓の伊勢自動車道側道辺りから
「枳城↑」の看板が立っており、それに従って歩いて行くわけですが、3つ目の看板が側溝
に落ちていることに気付かず、そこから登城道が分からなくなりました。スマホの地図を見
ながら、感を頼りに進んで行ったら、最後には直登になってしまい、結果、2つの頂の谷部
に着きました。この時、左右どちらへ進めば城跡か?分からず、右へ進んで何も無く、左へ
行ったら切岸が見え、ようやく枳城跡東側の堀切に到着しました。主郭の北側には仕切り土
塁を3つ4つ持つ腰曲輪が在り、主郭西側へ回り込むと、東側とは違って綺麗なV字の堀切
が在ります。主郭には枳城跡の説明看板・大日如来石像が有り、高城跡と違って土塁で囲ま
れた形跡はありません。主郭から南西方向に松阪市の集落・伊勢湾、北方に阿坂城跡が見え
、ココが出城であったことが感じられます。帰りも来た道を戻りましたが、下山した時、側
溝に落ちていた3つ目の「枳城↑」看板を見付け、登城道が別に有ることも知りましたが、
一様、目的は果たせたので良しとします。




枳城跡遠景



枳城跡登城口





主郭




枳城跡から見た牙城「阿坂城跡」




主郭西側の堀切



主郭東側の堀切



主郭北側の腰曲輪