三河 形原城
Katahara castle

形原城跡【愛知県蒲郡市形原町東古城】
 光忠寺【愛知県蒲郡市西浦町北馬場36】

【立地】丘城
【別称】稲生城・海岩城

【市指定史跡】

【形原松平家】与副〔与嗣〕― 貞副 ― 親忠 ― 家広 ― 家忠 ― 家信 ― 康信 ― 典信 ― 信利 =
       信庸 ― 信岑 = 信直 ― 信道 ― 信彰 = 信志 ― 信豪 = 信義 = 信正

【形原藩】1618〜1619年

【歴史】鎌倉時代、方原下司次郎師光が標高26m、比高26mの独立丘に築いたことに始まる。現在
は埋め立てられているが、往時は三河湾に突き出た丘陵端に在ったと云われる。長享年間(1487〜
1489年)、松平宗家3代信光の四男佐渡守与副が来住し、形原松平家の祖となる。永正年間(15
04〜1521年)与副が亡くなり、2代貞副(1531年死去)、3代親忠〔1541年死去〕を経
て、4代家広〔〜1571年〕より家康に仕える。5代家忠〔1547〜1582年〕は1564年「
三河吉田城攻め」1569年「掛川城攻め」1572年「三方ヶ原の戦い」1575年「長篠、設楽原
の戦い」に参戦。6代家信〔1565〜1638年〕は1582年「天目山の戦い」1584年「小牧
、長久手の戦い」1590年「小田原城攻め」に参戦。同年家康の関東移封に伴い、上総国五井へ移り
5000石を領した。1600年「関ヶ原の戦い」で戦功を挙げ、1618年5000石の加増を受け
、1万石で形原藩を立藩、陣屋を構えたが、翌1619年摂津国高槻藩2万石へ移り、廃藩となる。現
在は公園、畑地、宅地、神社に変わり、古城稲荷神社内に曲輪、石碑が在る。


【所感】県道321号線形原港町信号を真南へ進んだ上り坂の途中左に形原城跡の看板が在ります。古
城稲荷神社の鳥居を潜り、坂道を上ると、主郭東側の曲輪に出ます。ここは小公園のようになっており
、目の前には三河湾、更に奥へ進んだ石段横にお妙の塚が在ります。石段を登ると主郭。古城稲荷社の
本殿、形原城跡の石碑、歴史看板などが在ります。往時は海へ突き出た要害の地であったようですが、
現在は写真にもあるように、埋め立てられて海から遠くなっています。菩提寺は古城稲荷神社南西40
0mの光忠寺です。寺へ入って直ぐ左手に形原松平家初代〜5代の墓が在ります。この日はお墓を整備
している途中でしたが、奥様の計らいで墓石横に卒塔婆を立てて頂き、個々に分かり易い形で写真を撮
ることが出来ました。お抹茶と大根、ご馳走さまでした!





海側から見た形原城跡

 

古城稲荷神社入口〔写真:左〕形原城跡の歴史看板〔写真:右〕

 

6代家信の乳母お妙の塚〔写真:左〕古城稲荷社の鳥居〔写真:右〕

 

古城稲荷社本殿・主郭〔写真:左〕形原城址の石碑と説明看板・主郭〔写真:右〕

 

形原松平家の菩提寺「光忠寺」〔写真:左〕形原松平家初代与副公の墓・光忠寺〔写真:右〕



形原松平家2代貞副公/3代親忠公/4代家広公/5代家忠公の墓・光忠寺