遠江 勝間田城
Katsumata castle
勝間田城跡【静岡県牧之原市勝田】
清浄寺【静岡県牧之原市道場68】
【県指定史跡】勝間田城跡
【歴史】築城年は定かではない。標高126m、比高69mの山上に築かれた勝間田氏の城
である。1156年「保元の乱」で源義朝方に属した鎌倉幕府の御家人勝間田平三郎成長は
勝田庄の地頭となり、1294〜1313年子孫の勝間田越前守長清は『夫木和歌抄』を編
纂している。1331年「元弘の乱」で勝間田左衛門尉直幸が楠木正成軍で参戦。赤坂城・
千早城で鎌倉幕府軍との攻防戦から城の縄張りや築城法を学んだ直幸は、自身の縄張りで兵
部丞が勝間田城を築いたと云われる。室町時代、勝間田三河太郎は奉公衆となり、1399
年「応永の乱」・1439年「永亨の乱」などで将軍直属軍として活躍した。応永年間(1
394〜1428年)末、勝田太郎左衛門尉定長が勝間田城・穴ヶ谷城を修築したと云われ
る。1467〜1477年「応仁・文明の乱」では初め東軍の今川氏に属したが、西軍の斯
波義廉が西遠江へ侵入すると、横地・勝間田・鶴見氏らも西軍に傾いた。東軍の今川義忠が
掛川城を築いて勢力を回復すると、西遠江の土豪らは斯波氏から離れたが、勝間田氏らは西
軍で踏ん張り、1476年今川義忠の急襲で勝間田修理亮は敗れ、落城、勝間田氏の一部は
御殿場方面に落ちたと伝わる。1496年勝間田播磨守は兵を集めるも、旧地回復ならず、
滅亡した。1983年県指定史跡となり、現在は曲輪、土塁、堀切が残る。
【所感】県道233号線〔榛原金谷線〕を北上し、勝間田川×西村川が合流する勝田橋を渡
って直ぐ左の脇道〔市道小山段平城線〕へ入って350m程進んだ右手のトイレ・勝間田城
跡P〔グーグルマップに載ってます〕が登城口です。トイレ〔登城口〕からアスファルトの
S字坂道を400m程上った場所が城跡入口。右手の茶畑が出曲輪〔的場曲輪〕と呼ばれる
場所、その先の城址碑の背後が三の曲輪です。三の曲輪は城跡最大の広さで東・北・西を土
塁で囲み、北側に腰曲輪、東に二重堀切、西にも浅い堀切が穿たれています。一段高い南隣
りの二の曲輪は2番目に広い曲輪で北・西・南の一部を土塁で囲み、東側に堀切を持ってい
ます。西二の曲輪−北尾根曲輪A間に大堀切が穿たれ、これより南は曲輪が狭い性格の違う
城域に入ります。北から北尾根曲輪A→北尾根曲輪@→本曲輪→南曲輪→小曲輪の順で並び
、本曲輪から派生して東尾根曲輪→五重堀切→物見曲輪が並びます。その中で土塁を持つ曲
輪は北尾根曲輪〔北・東〕、本曲輪〔西・南〕、南曲輪〔西・南〕で、それぞれ敵の侵入を
意識した方角に造られています。大土塁の南側は勝間田氏が活躍した室町以前のもの、北側
〔二の曲輪・三の曲輪〕は戦国期に今川氏・武田氏が拡張したものと言われています。広い
城域で撮り甲斐のある城郭ですが、何度訪ねても五重堀切と曲輪を囲む土塁は感動します。
勝間田城跡登城口
登城道
城跡入口
出曲輪〔的場曲輪〕
出曲輪−城跡碑間の竪堀
勝間田城跡碑と三の曲輪入口
三の曲輪北側の腰曲輪と竪堀
三の曲輪の東尾根と二重堀切
東三の曲輪と土塁
西三の曲輪と土塁
西三の曲輪西側の掘切
西二の曲輪と土塁
東尾根曲輪から見た二の曲輪
東二の曲輪と土塁
東二の曲輪東側の堀切
西二の曲輪−北尾根曲輪A間の大堀切
北尾根曲輪A
北尾根曲輪@
東尾根曲輪
東尾根の五重堀切
東尾根先の物見曲輪
本曲輪
本曲輪西側の竪堀
本曲輪西側の掘切
南曲輪−本曲輪間の掘切
南曲輪
南曲輪−小曲輪間の堀切
小曲輪から西へ続く一騎駆け
雲海山 清浄寺
勝間田氏之墓・雲海山 清浄寺