武蔵 川越城
Kawagoe castle

   川越城跡【埼玉県川越市元町1丁目・大手町・宮下町1丁目・郭町1丁目・郭町2丁目】
川越城本丸御殿【埼玉県川越市郭町2丁目13−1】
  川越市役所【埼玉県川越市元町1丁目3−1】
  初雁中学校【埼玉県川越市宮下町1丁目21−3】
川越第一小学校【埼玉県川越市郭町1丁目21】
  川越小学校【埼玉県川越市郭町1丁目1−1】
 川越高等学校【埼玉県川越市郭町2丁目6】
川越市立美術館【埼玉県川越市郭町2丁目30−1】
川越市立博物館【埼玉県川越市郭町2丁目30−1】

【立地】平城

【県指定史跡】

【歴史】1457年関東管領扇谷上杉持朝が足利成氏〔古河公方〕に対抗する為、太田道真・道灌父子
に命じて築城したものとされる。往時は本丸と二の丸を合わせた程の規模であり、扇谷上杉氏は持朝−
政真−定正−朝良−朝興−朝定と6代80年程に亘り、城主として君臨したと云う。しかし、太田道灌
は1486年相模の糟屋〔伊勢原市〕で主君扇谷上杉定正に謀殺され、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内乱
、1487〜1505年「長享の乱」となる。その頃、北条早雲は扇谷上杉氏に属し、1495年小田
原城を奪取、関東に勢力を拡大する中、1519年に亡くなるが、その子北条氏綱が受け継いで、15
24年扇谷上杉朝興の居城江戸城を攻め落とした。敗れて川越城に拠った朝興は蕨城を築いて江戸城に
対抗したが、1537年50歳で没し、その子朝定が13歳で家督を継いだ。これを好機と読んだ北条
氏綱は川越城を攻め、朝定を松山城へ追い遣り、扇谷上杉氏の本拠川越城を手中に収めた。城代は北条
綱成。1545年10月31日この行動に山内・扇谷両上杉氏は古河公方足利晴氏と手を組んで川越城
奪回に動いた。川越城の守将福島綱成ほか3千余騎が籠城、8万余騎の山内上杉憲政+扇谷上杉朝定+
足利晴氏連合軍が城を取り囲む。北条氏康は小田原城から馬廻衆8千の手勢を引き連れて武蔵府中に着
陣、4度の出陣−帰陣を繰り返したが、1546年4月20日夜、5度目の出陣で夜戦〔川越夜戦〕を
掛け、北条軍が大勝。扇谷上杉朝定は討死、、足利晴氏は下総国古河へ退却、山内上杉憲政は上野国平
井城へ敗走し、1551年長尾景虎〔上杉謙信〕を頼って出奔した。城代は大道寺政繁。関八州は北条
氏康の所領となるが、1571年に没し、氏政・氏直の時代となる。1590年豊臣秀吉の関東攻略の
際、川越城は前田利家の攻撃で落城、徳川家康が北条氏の旧所領を受け継ぎ、酒井果河内守重忠が相模
国甘縄を経て1万石で入封し、川越藩が成立した。1592〜1593年「文禄の役」の際は江戸留守
居を務め、1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、1601年2万3000石の加増を得て、上野
国厩橋へ転封になった。その後、番城となるが、1609年重忠の弟忠利が駿河国田中から2万石で入
封。忠利は大留守居となり、将軍家三代家光を補佐するとともに1612年川越喜多院を造営、162
4年領内総検地を行って、加増により3万7000石を領し、三芳野神社を創建した。1627年忠利
が没すると、徳川家光を補佐して老中職にあった嫡男忠勝が武蔵国深谷5万石から入封、遺領の内3万
石を合わせて8万石を領し、1632年10万石に加増された。1628年川越氷川神社を修復、16
33年仙波東照宮・多賀町の時の鐘を創建、1634年若狭国小浜へ転封となった。相馬義胤が城代を
務め、1635年老中堀田正盛が3万3000石で入封。1638年正月の川越大火により喜多院・東
照宮が罹災し、同年信濃国松本へ移されたが、川越大火が転封の理由とも云われる。1639年武蔵国
忍より老中松平信綱が6万石で入封。1637〜1638年「島原の乱」で戦功があり、徳川家光の側
近として手腕を発揮し、「知恵伊豆」と呼ばれた。また、川越城の拡張工事を行い、本丸・二ノ丸・三
ノ丸・新曲輪・八幡曲輪・中曲輪・追手曲輪・田曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門から成る巨大
城郭となり、城下町も整備した。1647年7万5000石に加増、野火止用水を築いて新田開発を行
い、生産物や商品の運搬の為、新河岸川を改修して江戸との舟運を容易にした。1662年信綱没後、
輝綱が遺領を継ぎ、1672年信輝に継がれ、弟輝貞に5000石を分与して7万石を領したが、16
94年下総国古河へ転封となった。同年、7万2300石で柳沢吉保が入封し、1697年2万石加増
、1702年2万石加増で11万2300石となり、1704年甲斐国甲府へ15万石余で転封。その
後、秋本喬知5万石−1714年秋本喬房−1738年秋本喬求−1742年秋本凉朝−1767年松
平朝矩−1768年松平直恒−1810年松平直温−1816年松平斉典−1849年松平典則−18
54年松平直候−1861年松平直克−1867年松平康英と続き、1869年松平康載で廃藩置県を
迎える。現在は住宅・市役所・学校・美術館・博物館・公園などに変わり、本丸御殿の一部、本丸富士
見櫓台、中ノ門堀の一部が残る。


【所感】松平信綱が築いた城郭は東西800m程、南北400m〜600m程の広大なもので、現在、
その場所は川越市役所・川越小学校・川越第一小学校・初雁中学校・川越高等高校・川越市立美術館・
川越市立博物館・初雁公園など、学校、公共施設に変わっています。川越城本丸御殿もこのエリア内に
在り、玄関付きの建物と家老詰所のみの建物となりますが、それでも現存御殿ということで県指定の有
形文化財に指定されています。中でも36畳の広間は学校の体育館・武道場として使用されたようで、
天井にバレーボールの跡が付いていることに驚きました。この他にも発掘により一部公開されている中
ノ門堀跡や富士見櫓台、太田道灌公像などの見所がありますが、私がここへ来たかった理由は、日本に
残る現存御殿4つ〔高知城・二条城・掛川城・川越城〕の1つであることです。




川越城本丸御殿

 

本丸御殿広間〔写真:左〕本丸御殿広間の天井・バレーボール跡〔写真:右〕

 

本丸御殿の東側廊下〔写真:左〕家老詰所〔写真:右〕

 

本丸富士見櫓跡〔写真:左〕川越城跡の看板・本丸富士見櫓跡〔写真:右〕

 

川越城田曲輪門跡の石碑〔写真:左〕川越城中ノ門堀跡〔写真:右〕



川越城大手門跡・太田道灌公像・川越市役所