信濃 川中島古戦場
Kawanakajima historic battleground
川中島古戦場跡【長野県長野市小島田町】
八幡原史跡公園【長野県長野市小島田町1384−1】
八幡神社【長野県長野市小島田町1362−1】
長野市立博物館【長野県長野市小島田町1414】
【立地】平地
【歴史】1553〜1564年、甲斐の虎「武田信玄」越後の龍「上杉謙信」が、犀川、千
曲川に挟まれた川中島で対陣した戦である。12年間で5回戦ったと云われ、1553年「
篠ノ井(布施)の戦い」1555年「犀川の戦い」1557年「上野原の戦い」1561年
「八幡原の戦い」1564年「塩崎の対陣」がそれである。中でも、1561年「八幡原の
戦い」が最大の合戦で、双方合わせて8000の戦死者を出す死闘となった。上杉勢1万6
000は善光寺を経て、3000の兵を残して敵地深く妻女山に布陣した。武田勢2万は茶
臼山に布陣し、後に海津城へ本陣を移した。合戦当日の深夜0時頃、高坂昌信、馬場信春率
いる別働隊1万2000は謙信勢を背後から奇襲すべく海津城を出陣し、川中島へ押し出し
て武田勢本隊と挟み撃ちにする作戦をとった。これが山本勘助が進言した「啄木鳥戦法」で
ある。午前2時頃、これを察した謙信はすぐさま1000人の兵を麓に残して下山し、千曲
川を渡って八幡原に布陣した。午前4時頃、武田勢本隊8000も海津城を出、千曲川を渡
って八幡原に布陣した。早朝、濃霧の中、謙信勢1万2000は「車掛りの陣:車輪のスポ
ークのように部隊を配置し、次々と攻撃する陣形」で襲いかかり、信玄勢8000はこれを
「鶴翼の陣:鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形」で対抗した。午
前7時頃、本格的な戦闘が始まって乱戦状態となり、数で劣る武田勢が押されていたが、午
前10時頃、別働隊1万2000が到着し、上杉勢の側背に痛撃を与えた。戦況が逆転した
上杉勢は戦場を離脱、越後へ退却し、武田信玄の弟信繁、諸角虎定、山本勘助が戦死した。
【所感】ここでは「信玄・謙信一騎討ちの像」を撮ること、勘助のお墓参りをすることが目
的でした。八幡原史跡公園北に在る八幡神社に信玄・謙信一騎討ちの像、三太刀七太刀之跡
の石碑、戦死者の首塚などが在り、その東の長野市博物館では「体感!川中島の戦い200
7」特別企画展で開催され、迷わず足を運んで見てきました。液晶大画面で謙信を語るガク
トが印象的でした。勘助の戦没地は、現在の長野オリンピックスタジアムが在る南運動公園
で、公園の南西に勘助宮跡の石碑が立っています。勘助の墓は千曲川を挟んだ対岸の更科橋
近くに在り、畑の中に出店や説明員の方がいて少し驚きましたが、しっかりお参りして来ま
した。訪城を忘れて観光客気分で周った地です。
信玄・謙信一騎討ちの像・八幡原史跡公園〔写真:左〕三太刀七太刀之跡の石碑〔写真:右〕
山本勘助(鬼道)墓〔写真:左〕勘助宮跡の石碑〔写真:右〕