駿河 葛山城
Kazurayama castle

 葛山城跡【静岡県裾野市葛山】
  仙年寺【静岡県裾野市葛山491】
中村集会所【静岡県裾野市葛山456】

【立地】平山城

【市指定史跡】

【歴史】築城年は定かではない。愛宕山〔標高270m、比高70m〕に築かれた葛山氏の
平山城で、戦後期、主要部周辺を武田氏が改修している。大森葛山系図によると、葛山氏は
藤原道隆の子伊周を祖とし、忠親−惟康と続く。三河国高橋庄の領主であった惟康が駿東へ
移り、子惟兼が鮎沢氏を名乗り、その子惟忠が葛山に住んで葛山氏(惟兼説もある)を称し
たとある。惟忠の子惟重は御宿氏、その弟景忠は上田氏を名乗り、景忠の子景倫は鎌倉幕府
3代将軍源実朝〔1192〜1219年〕の近侍として仕えた。1361年関東管領職にあ
った畠山国清〔道誓〕が鎌倉公方足利基氏に背いて伊豆に拠った時、畠山軍を攻める基氏軍
に葛山備中守の名がある。今川範国〔〜1384年〕の代で今川氏に属し、1416年「上
杉禅秀の乱」では今川範政〔1364〜1433年〕軍、1438年「永享の乱」では今川
範忠〔1408〜?1461年〕軍に参戦して活躍した。1491年伊勢長氏(北条早雲)
が伊豆堀越の茶々丸〔足利政知の子〕を討って伊豆を奪った時、葛山氏が援軍を送り、以後
、北条氏と深い同盟関係に入る。1495年早雲が小田原城主大森藤頼〔葛山氏の一族〕を
追放すると、葛山氏は大森氏の遺領北駿へ進出。1525年頃、葛山氏堯が北駿・駿東辺り
を手中に収めたと云う。1537〜1545年「河東〔富士川以東〕の乱」の時、葛山氏は
戦況に応じて今川氏や北条氏の軍に参戦し、1554年甲駿相の三国同盟が成立、葛山氏の
支配領域も安定した。1559年今川義元の尾張進軍の際、笠寺砦を築き、葛山備中守勝嘉
・葛山播磨守信貞〔武田信玄の六男〕・葛山長嘉〔信長公記〕らが布陣。1560年「桶狭
間の戦い」で義元没後、氏真が継ぎ、1568年朝比奈・三浦・瀬名・葛山氏元〔1520
〜1573年〕は今川を離れ、武田氏に内応。1569年武田軍として穴山梅雪とともに北
条方の大宮城を包囲している。1573年氏元は信玄に疎まれて諏訪湖に入水して自害、武
田信玄の六男信貞が葛山氏を継ぐが、1582年武田氏滅亡とともに甲斐善光寺で自刃した
。葛山一族は上州・駿州・摂州などに離散したと云う。現在は山林となり、曲輪、土塁、堀
切、横堀、竪堀、畝状竪堀が残る。

【所感】葛山城跡は仙年寺本堂の左手から葛山氏墓所→丸太段で2号堀に到着します。最高
所の本曲輪を一段下がったU字の二の曲輪が囲み、更に一段下がった東・南面に横堀、北面
に畝状竪堀があります。これらの主要部を西と東で二重堀切が挟み、南東・南西に長い竪堀
が伸び、左右対称の縄張りになっています。主要部から続く東尾根には東曲輪・袖曲輪・大
手曲輪もあり、見応えがある城跡となっています。訪ねる前は草木に覆われて全ての遺構は
撮れないだろうと思っていましたが、しっかり管理されて全てを捉えることが出来ました。




葛山城跡遠景



葛山城跡の石碑・中村集会所横



仙年寺・葛山氏居館跡



葛山氏墓所





登城道





4号堀(竪堀)






5号堀(堀切)






6号堀(堀切)









本曲輪を囲む馬蹄形の二の曲輪



二の曲輪の虎口



二の曲輪西端の土塁



二の曲輪北端の土塁



本曲輪入口



本曲輪の虎口



本曲輪北端の土塁





本曲輪



本曲輪北側の畝状竪堀群



二の曲輪東側の畝状竪堀と横堀





3号堀(竪堀)





2号堀(堀切)





1号堀(堀切)



東曲輪



袖曲輪へ向かう道



袖曲輪と袖切



大手曲輪へ下る道





大手曲輪



大手曲輪側の葛山城跡入口