上総 大多喜城
Otaki castle
大多喜城跡【千葉県夷隅郡大多喜町大多喜】
千葉県立中央博物館・大多喜城分館【千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481-17】
大多喜高等学校【千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481-31】
【立地】平山城
【別称】大滝城・小田喜城・太田喜城・根古屋城・舞鶴城
【県指定史跡】上総大多喜城本丸跡 附 大井戸、薬医門
【歴史】標高73m、比高60mの山上と東麓に築かれた城で、水堀として夷隅川、及び
、夷隅川の水を取り込んで内堀、外堀が造られた。1521年頃、上総真里谷城主武田信
興の次男信清が築き、初代城主となる。1534年没後、嫡男直信が継ぎ、3代朝信は、
1544年安房里見氏の部将正木氏と夷隅郡夷隅町苅谷ヶ原の戦いで没した。同年、正木
時綱の嫡男正木大膳亮時茂が城主となり、館山城主里見義尭・義弘に仕えて多くの武功を
挙げたが、1576年に没す。時茂の養子憲時が城主となるが、1580年里見氏に背い
て安房へ侵入したが、里見義頼に敗れ、1581年家臣によって殺害された。憲時没後、
里見義頼の次男時尭が大多喜城主となった。1588年以降、しばしば上総夷隅郡万喜城
の土岐氏と戦い、勇名が知られた。1590年秀吉の「小田原征伐」後、徳川家康が関八
州へ入ると、徳川四天王の一、本多忠勝が10万石で大多喜藩を立藩した。外敵の安房国
館山城主里見義康に対する軍事的配置であった。1600年「関ヶ原の戦い」の翌年、忠
勝は伊勢国桑名城10万石へ移り、旧領の内5万石を次男忠朝が継いだが、1615年「
大坂夏の陣」で戦死。甥の政朝が相続するが、翌1616年播磨国龍野へ転封となる。武
蔵国鳩谷の阿部正次が3万石で入封するが、在封2年余で相模国小田原へ転じて、一時廃
藩となる。1623年3代将軍家光の勘気に触れて老中を罷免された武蔵国岩槻4万50
00石青山忠俊が2万石で入るが、下総国網戸へ蟄居を命ぜられ再廃藩、廃城となる。1
638年阿部正令〔正能〕が祖父岩槻藩主阿部正次から1万石を分与され、大多喜に入封
した。1651年正令は叔父重次〔正次の子〕の遺領6000石を得て、1万6000石
を領有したが、1652年武蔵国忍藩主阿部忠秋の養子となり、重次の次男正春が入封、
1659年岩槻藩主阿部定高が遺領を相続して転封となり、再び廃藩となる。1671年
正春が1万6000石で入封、1702年三河国刈谷へ転封となり、稲垣重富が2万50
00石で入封したが、在封僅か20日間で下野国鳥山へ転封となった。1703年相模国
甘縄から大河内松平正久が2万石で入封し、正貞-正温-正升-正路-正敬-正義-正和
-正質と9代、170年程続いた。正質は老中格として、1868年「鳥羽伏見の戦い」
で鳥羽口の指揮官となって大敗し、新政府から官位と領地を没収され、佐倉藩に幽閉され
た。間もなく許され、1871年廃藩置県を迎える。1966年県史跡に指定され、20
17年続日本100名城に選定される。現在は曲輪、土塁、堀切、井戸跡などが残る。
【所感】本多忠勝ファンの私としては大多喜は是非とも行っておきたい場所。行く機会を
ずっと伺っていましたが、やっと来ることが出来ました。今は博物館や学校、住宅に変わ
り、往時の面影はありませんが、忠勝公も見たであろう同じ景色を見ることが出来、大変
嬉しく思いました。また本多氏の後、阿部氏・稲垣氏・大河内松平氏も我が三河出身の譜
代大名、これもまた良し。初回ということで情報量が少ない状態で来ましたが、次回は栗
山地区も含めて、もう少し細かく撮ってみようと思います。
大手門跡
四ッ門跡
二の丸の大井戸・大多喜高等学校
二の丸御殿薬医門【県指定有形文化財】・大多喜高等学校
二の丸・大多喜高等学校グランド
本丸・千葉市県立中央博物館 大多喜城分館
本丸-八幡社出丸間の大堀切
八幡社出丸・二の丸公園
大多喜水道