駿河 北松野城
Kita Matsuno castle

北松野城跡【静岡県富士市北松野】

【立地】平山城
【別称】松野城

【歴史】標高120m、比高50mの尾根端に築かれた平山城である。室町時代〔1336
〜1573年〕前期、北松野の初代領主荻次郎左衛門尉氏誉〔〜1398年〕の築城と推定
される。荻氏は武田太郎信義〔1128〜1286年〕の弟奈胡〔奈古〕義行の後裔で、紀
伊を中心に伊勢・志摩で栄えた一族である。義行から3代家弘の次男範氏の長男行長が『別
所氏』、三男忠長が『湯川氏』、五男長俊の次男長義が『荻氏』を称し、荻次郎左衛門長義
→荻次郎太郎頼村→次郎左衛門氏誉に至る。初め氏誉は京都に居住し、室町幕府3代義満に
仕えたが、駿河国松野郷を領有するに至り、当地に土着したとされる。氏誉の後、2代妙忠
→3代小太郎→4代一通→5代慶徳→6代清誉→7代久誉→8代淑誉→9代君誉と続いた。
5代慶徳の頃、今川氏の被官となり、1521年今川氏の重臣福島上総介正成に属したが、
武田信虎との甲斐一条原で討死している。1568年12月武田信玄の駿河侵攻では、12
月9日信玄は甲斐を出立し、富士川に沿って河内路を南下、万沢〔山梨県南巨摩郡南部町〕
→内房〔静岡県富士宮市〕に入って布陣した。9日別動隊の山県三郎兵衛昌景は北松野を目
指して進軍し、6代清誉は今川方として内房山口に出陣したが、山県昌景との戦いで討死し
、7代久誉は武田氏に従属して松野郷を安堵された。9代君誉は武田方の穴山信君に仕え、
1570年松野郷に五百棟の食地をうけ、感状および永楽銭十二貫文を与えられた。158
2年武田氏滅亡後、荻氏は徳川家康の五男武田〔松平〕信吉に仕えて水戸へ移り、江戸時代
は水戸徳川頼房に仕官し、現在も子孫が水戸市に在住とのこと。現在は山林となり、曲輪、
土塁、堀切、横堀などが残る。

【所感】散歩中の人に登城口について尋ねたところ、城跡の北と南に在ることを教えてくれ
ました。私は神明社辺りに登城道があると思っていたので、詳しい人に会えてラッキーでし
た。南登城口まで案内頂き、100m弱で竹林の鞍部に到着。〔そのまま真っ直ぐ歩いて突
き当りを右折して道成りに下ると北登城口に出ます〕そこから右〔東〕へ曲がり、竹林→杉
林に変わると右手に二重堀切が現れ、どちらも竪堀となって南に落ちています。鉄塔の場所
から右〔南〕上に曲輪〔三の曲輪?〕、その奥が城跡で最も広い本曲輪〔杉林〕がです。南
端に土塁、北側の一段低い場所〔鉄塔から入る〕に浅い横堀、東隣りに腰曲輪があります。
縄張り図に浅い横堀と腰曲輪の間に北に落ちる竪堀が2本ありますが、東側の竪堀のみ確認
出来ます。本丸東端から曲輪が2段〔分かり辛い〕→堀切→二の曲輪の順に並びます。東麓
の神明社から真っ直ぐ進むと、左手に石積みで少し高くなった場所がありますが、ここが荻
氏の屋敷跡と言われています。平時は屋敷、有事は詰城〔北松野城〕、城と屋敷は最短ルー
トになっています。







北松野城跡遠景





南登城口と登城道〔近道〕





















北登城口と登城道〔現地の推奨道〕









登城道後半



西側の二重堀切



東側の二重堀切



送電用鉄塔



横堀・本曲輪北西側



竪堀・本曲輪北側



腰曲輪・本曲輪北側・雑木林



本曲輪西側の曲輪〔三の曲輪?〕





本曲輪・杉林



溜池跡・本曲輪北東側



本曲輪東側の曲輪@段目



本曲輪東側の曲輪A段目



二の曲輪西端の堀切



二の曲輪





荻氏屋敷跡の土塁跡



神明社