加賀 小松城
Komatsu castle

県立小松高等高校【石川県小松市丸内町二ノ丸15】
   稚松小学校【石川県金沢市殿町2丁目7】
    芦城公園【石川県金沢市丸の内公園町】
 本陣記念美術館【石川県金沢市丸の内公園町19】
  小松市公会堂【石川県金沢市丸の内公園町32】
 小松市立博物館【石川県金沢市丸の内公園町19】
 小松市立博物館【石川県金沢市丸の内公園町19】


【平城】平城
【別称】芦城・浮城・小松浮城

【県指定史跡】浅井畷古戦場
【市指定史跡】小松城本丸櫓台石垣・来生寺の寺門・前田利常公灰塚

【歴史】築城年は定かではない。『宗滴雑談』によると、1564年9月12日一揆軍が守
る小松城を朝倉義景が攻略したとあるが、その根拠は乏しい。1576年一向一揆の部将若
林長門守が城主であったとされるが、加賀一向一揆の打倒を目指す織田信長は柴田修理亮勝
家を派遣して征伐を開始。1577年8月8日に小松村→8月9日に小松口を焼き払い、1
580年加賀制圧をした信長は、村上周防守頼勝〔義明・忠勝〕を能美郡6万6000石で
小松城に配した。1582年信長没後は政権は豊臣秀吉に移ったが、小松の地は越前国北ノ
庄城主丹羽越前守長秀の与力となった村上頼勝が継続して領有した。1585年頼勝は新た
に北ノ庄城主となった堀左衛門督秀政配下の大名となり、1598年4月秀政の子秀治が越
後国春日山城移封に伴い、頼勝も越後国本庄〔村上〕9万石に封じられた。村上氏に代わっ
て松任城主丹羽五郎左衛門長重〔丹羽長秀の子〕が封じられ、前領4万石と合わせて12万
5000石を得た。1600年8月徳川方に与した金沢城主前田利長×豊臣方に属した小松
城主丹羽長重が木場潟畔の浅井畷で戦い、『関ヶ原の戦い』の前哨戦ともいえるこの戦に長
重は敗れ、利長に降った。丹羽長重は和議を講じたが、徳川家康はこれを許さず、所領を没
収して前田領になった。小松城は越中国富山城代の前田長種・直知父子が城代となったが、
1615年一国一城令によって廃城となる。1639年6月20日加賀藩主2代前田中納言
利常は80万石を長子筑前守光高に譲り、越中国富山10万石・加賀国大聖寺7万石に分与
し、自らは退老して加賀国新川郡+能美郡22万2760石余を隠栖料として小松城に住す
ることになった。小松藩を再立藩し、幕府から小松城の築城が許可された。1640年6月
利常は江戸からの帰路家臣400人と共に入城。9月本丸御殿完成、武家屋敷の配置、9つ
の寺院の移転、那谷寺や小松天満宮の再建、城下町拡充のほか小松町奉行の設置、駅馬50
頭の配備、小松絹・小松表・製茶・瓦生産の保護などの藩政を展開し、北陸街道の城下町・
宿場町・門前町および能美郡の物資集散の在郷町として位置づけた。1645年4月5日幕
府の命により、利常は加賀藩主3代光高没後、3歳で襲封した4代綱紀の政務を監すべき旨
を論され、加賀藩政の全面的後見を行い、1651年5月郡内における改作法を実施してい
る。1658年10月12日前田利常は66歳で病没。小松領は加賀藩に吸収され、小松城
は城代支配となったが、その多くは城番の居ない多目的な城代であった。1963年市指定
史跡となり、現在は学校・公園・公共施設などに変わり、天守台、本丸堀石垣の一部、井戸
跡、移築門が残る。

【所感】小松城の縄張はザックリ言うと、小松高校の運動場〔丸内町本丸・枇杷島〕=本丸
で校舎エリア=二の丸〔丸内町二ノ丸〕、芦城公園+稚松小学校+小松市公会堂+小松市立
博物館+小松市立本陣記念美術館〔丸の内公園町+丸内町三ノ丸〕=三の丸になり、それぞ
れ石碑が立っています。まだ本丸周辺しか撮れていませんが、また機会を見付けて関連地を
回りたいと思います。








天守台・本丸・小松高等高校





堀石垣・本丸・小松高等高校



本丸跡碑・小松高等高校