尾張 河和城
Kowa castle

  河和城跡【愛知県知多郡美浜町河和字西谷】
   全忠寺【愛知県知多郡美浜町河和字古屋敷61】
知多厚生病院【愛知県知多郡美浜町河和字西谷81−6】
 水野屋敷跡【愛知県知多郡美浜町河和字北屋敷】

【立地】丘城

【歴史】長禄年間(1457〜1459年)頃、渥美の田原城主戸田宗光が渡海し、知多半島東岸のお
城山〔標高36m・比高30m〕に砦を築いたことに始まる。宗光の子憲光が城を築き、1509年田
原城を息子政光に譲り、自身は河和へ移住し、1527年まで存命した。2代は養子の孫右衛門繁光に
継がれ、3代孫八郎守光は水野信元の娘を妻とするが、1590年「小田原征伐」で守光は討死し、そ
れを聞いた郷民が河和城を攻め、廃城になったと云う。嫡男の戸田光康は母と共に江戸へ逃れ、家康の
母於大の元で育った。1597年9月武蔵国足立郡大門郷700石を得、母の旧姓水野氏に名を改め、
1601年河和〔水野屋敷〕1460石に帰住した。代々尾張藩士として、政康−伊頼−康寛−康村−
某−康般−康民−康功−康年と続いた。現在は竹林、山林となり、曲輪、土塁、堀、櫓台などが残る。

【所感】知多厚生病院東側の山が城跡です。登城口は山の東側で、コンクリートブロック塀に囲まれた
中に駐車場・河和城跡の看板・丸太段の登城道が在ります。登り切った広い地が主郭で、桜が植わって
います。西端に土塁が横たわり、南西端は頂部が広い櫓台です。主郭の西端から下を覗くと、「横掘」
「曲輪」の看板が見えます。丸太段や道は無く、急傾斜の切岸を容易に降りることは出来ません。横掘
の看板が立つ場所は、横掘とは言い難い平坦地になっていますが、北へ進むと、一段低くなって薬研堀
になっているので、埋められて平坦になったものと思われます。薬研堀は主郭の北西から北へ周りこん
で東の崖で途切れています。横掘の更に西側には横掘と土塁が連なり、二重で防御していますが、こち
らは深い竹林で分かり辛いので撮りませんでした。他にも主郭の南側一帯を撮りたかったのですが、竹
林に阻まれて無理に行くことを辞めました。河和城跡は主郭の西側が面白いのに容易に降りれない点が
悔やまれます。





主郭北側の横掘

 

主郭北側の土塁〔写真:左〕主郭北側の崖で途切れる横掘〔写真:右〕

 

主郭西端の切岸と主郭西側の横掘〔写真:左〕主郭西側の小曲輪〔写真:右〕

 

主郭南西端の土塁〔写真:左〕主郭西端の土塁〔写真:右〕

 

主郭〔写真:左〕登城口・河和城跡の看板〔写真:右〕



水野家〔戸田氏〕の墓所・全忠寺