陸奥 九戸城
Kunohe castle
九戸城跡【岩手県二戸市福岡字城ノ内・松ノ丸】
【立地】丘城
【別称】白鳥城・宮野城・福岡城
【国指定史跡】九戸城跡
【歴史】明応年間(1492〜1501年)頃、九戸光政の築城とも、1568年鹿角郡奪
還の戦いで戦功を挙げた九戸政実が九戸村の長興寺から移ったとも云われ、ハッキリしない
。1590年豊臣秀吉の「小田原征伐」の際、参戦しなかった葛西氏・稗貫氏・大崎氏・和
賀氏らは奥州仕置によって領地を没収され、居城から追放された。しかし、仕置の軍勢が撤
収すると、それを不服とする諸氏の遺臣達が一揆を起こし、居城を奪還するなどの行為に乗
じた九戸政実は、1591年3月三戸の南部信直に謀叛し、櫛引氏・久慈氏・七戸氏らを誘
って、九戸方に協力しない諸城を攻撃した。この「九戸政実の乱」に対し、南部信直は一戸
の月館城に布陣し、北氏・名久井氏・野田氏・桜庭氏・浄法寺氏・葛巻氏らの協力を得て、
日夜合戦に及んだが、鎮圧には至らなかった。8月奥州再仕置の軍勢が北上地方に到着し、
9月1日蒲生氏郷軍は馬淵川流域に進入して姉帯城・根反城を攻略、9月2日九戸城に迫っ
た。九戸籠城軍5000人に対し、3万の軍勢で取り囲み、9月4日九戸氏の菩提寺薩天和
尚の説得により九戸政実は降伏、九戸城は落城。九戸政実ほか150人は宮城県栗原郡三迫
で処刑された。和賀・稗貫・紫波は南部信直に加封され、九戸城を修築後、信直は三戸城か
ら九戸城へ本拠を移した。名を福岡城を改めたが、信直の子利直が盛岡城へ本拠を移した為
、1636年廃城となる。1935年国の史跡に指定され、現在は公園として整備され、曲
輪、土塁、堀、石垣、井戸跡などが残る。
【所感】九戸城跡は馬淵川、白鳥川、猫淵川を天然の堀とし、本丸の西に二ノ丸・石澤館・
若狭館、本丸の南に松ノ丸を展開しています。初回〔2013年〕は曇天で下見レベルで撮
っていましたが、今回は快晴で、時間を掛けてゆっくり撮りました。ただ、石澤館は立入禁
止で先回の写真を流用、二ノ丸−若狭館間の堀は工事中で撮影不可でした。本丸・二ノ丸は
整備が進んでおり、本丸に建物礎石が敷かれ、拡張整備された二ノ丸の東エリアは堀跡や門
跡、土塁などが紹介されて見所が増えました。今後は石澤館・若狭館・松ノ丸が少しでも手
が入れば、足を運ぶ人が増えると思います。九戸城跡は広い曲輪、幅広い堀、垂直切岸など
が特徴ですが、遺構を隅々まで撮ると3時間ぐらいは掛かります。
九戸城跡碑
本丸虎口跡
本丸井戸跡
本丸南端の土塁
本丸上段
本丸下段
本丸追手門跡
本丸追手門橋
本丸東側の堀
本丸枡形虎口南側の堀
本丸南側の堀
二ノ丸大手
二ノ丸南エリア
二ノ丸東エリア下段
二ノ丸東エリアの上段と下段を仕切る堀
二ノ丸東エリア上段の門跡
二ノ丸東エリア上段
二ノ丸搦手
二ノ丸−石澤館間の堀
石澤館
松ノ丸−二ノ丸間の深田堀
松ノ丸
若狭館