駿河 久能山城
Kunozan castle
久能山城跡【静岡県静岡市駿河区根古屋】
久能山東照宮【静岡県静岡市駿河区根古屋390】
徳音院【静岡県静岡市駿河区根古屋392】
鉄舟寺【静岡県静岡市清水区村松2118】
【立地】山城
【別称】久能寺城・久能城
【国宝】久能山東照宮本殿、石の間、拝殿
【国指定史跡】久能山
【国重要文化財】久能山東照宮唐門、東門、廟門、玉垣、渡廊廟所宝塔〔神廟〕、
日枝神社本殿、神庫、神楽殿、鼓楼、神厩、楼門
【歴史】1568年今川氏真を破って駿河へ進出した武田信玄が、久能山山頂付近に在った
久能寺を北矢部〔現在の鉄舟寺:静岡市清水区村松〕へ移して築いた城とされる。愛宕曲輪
の久能山山頂〔標高216m〕から大手門が在った現在の一ノ門〔標高120m〕までの縄
張は、現在の久能山東照宮全体とほぼ同範囲になる。信玄は久能山城、及び、その両翼とな
る袋城、持舟城に水軍を置き、伊豆の北条水軍の監視にあたった。城主は今福浄閑斎、今福
丹波守父子であったが、1573年今福丹波守は諏訪原城番となり、1575年「長篠、設
楽ヶ原の戦い」で武田勝頼が敗れると、再び久能山城に在駐した。1578年より徳川家康
の駿河侵攻で諸城が陥落し、1582年久能山城も徳川軍の包囲で落城となり、今福丹波守
は甲州へ去った。「天目山の戦い」で武田家が滅亡すると、1583年松平源三郎勝俊、1
590年駿府城主中村一氏の臣松下吉綱が在番となった。1600年「関ヶ原の戦い」を経
て、1606年榊原清政、照久父子が在城するが、1616年4月17日家康没後、遺言に
従って久能山城は廃して山頂近くに葬り、旧城郭内に東照宮が創建された。現在は久能山東
照宮、久能山東照宮博物館が建ち、曲輪、土塁、井戸が残る。
【所感】久能山は国道150号線久能山下信号を北へ曲がり、一ノ鳥居・徳音院から115
9段の石段を登る方法、日本平から日本平ロープウェイで下りる方法の2つがあります。私
は車で日本平まで上り、日本平駅〔標高269m〕→久能山駅〔標高145m〕までロープ
ウェイ〔所要時間5分〕で下りました。久能寺→久能山城→久能山東照宮の順で築かれ歴史
があり、城は久能寺創建の際に造られた平坦地を利用したらしく、東照宮の拝殿より南側が
そのエリアになります。本曲輪は久能稲荷神社の場所・その背後の上段・久能稲荷神社南の
平坦地、二の曲輪はロープウェイ久能山駅の建物・発着ホーム辺り、人質曲輪は社務所辺り
の平坦地、馬出曲輪は博物館前のトイレがある平坦地、大手曲輪は旧宝物館と勘助井戸が有
る平坦地、大手は表参道石段側で、一ノ門を入って右へ折れる大手枡形虎口、次に左へ折れ
た右側に大手曲輪が在る順になります。久能山城の築城が1568年、1561年山本勘助
が亡くなっているので、勘助井戸の名はおかしい。そういうこともあってか、嘗て有った看
板は取り除かれ、勘助井戸の石碑のみが残っています。東照宮の建物は国重要文化財、国宝
。城跡の撮影というより、観光の写真になってしまいます。
東照宮から見た駿河湾
表参道石段:1159段
一ノ門
大手枡形虎口
一ノ門−旧宝物館間の石段
大手曲輪(東三の曲輪)・旧東照宮宝物館
勘助井戸・大手曲輪(東三の曲輪)
馬出曲輪
二の曲輪・ロープウェイ乗り場
人質曲輪・社務所辺り
楼門【国重要文化財】
楼門【国重要文化財】と神厩【国重要文化財】
本曲輪
唐銅鳥居
五重塔跡
鼓楼【国重要文化財】
神庫【国重要文化財】
日枝神社本殿【国重要文化財】
東門【国重要文化財】
唐門【国重要文化財】
拝殿【国宝】
廟門【国重要文化財】
神廟【国重要文化財】
家康公愛馬之墓所・神廟
日本平から見た富士山