美濃 黒野城
Kurono castle
黒野城跡公園【岐阜県岐阜市黒野】
スギ薬局黒野店【岐阜県岐阜市黒野707−2】
高齢者向け住宅桂花【岐阜県岐阜市黒野字二ノ丸328−8】
多賀神社【岐阜県岐阜市黒野46】
【立地】平城
【市指定史跡】
【歴史】黒野城主加藤左近大夫貞泰は加藤遠江守光泰の子である。加藤氏は西美濃安藤家の
一族で、土岐氏の旧臣であった。加藤氏は黒野を領し、土岐氏に属してからは厚見郡今泉の
橋爪に住んだ。その後、斎藤氏→秀吉に従って戦功を挙げ、丹波周山城→近江高島城→尾張
犬山城を経て、1585年大垣城へ入った。一時期、秀吉の勘気を被り、豊臣秀長付きとな
ったが、許されて佐和山城主になった。1590年『小田原征伐』の戦功により、甲斐国甲
府24万石を得た。1592年『文禄の役』で戦功を挙げたが、1593年8月29日帰国
途中で病没。一説には石田三成に毒殺されたとも云う。嫡男貞泰は巨済島に在番。帰国後の
1594年、貞泰は若年であることを理由に甲斐国24万石を収公、美濃国黒野4万石へ移
り、黒野城を築いて黒野藩を立藩した。1600年『関ヶ原の戦い』の際、加藤貞泰は竹中
重門・関一政・稲葉貞通父子と共に石田三成方に参陣して犬山城を防衛。しかし、貞泰は以
前から三成に恨みがあった為、竹中重門らと東軍へ寝返り、井伊直政に従った。戦後、貞泰
は黒野4万石を安堵され、1610年2万石の加増を受けて伯耆国米子城6万石へ移り、黒
野は廃藩となった。現在は黒野城跡公園となり、曲輪、土塁、堀が残る。
【所感】県道91号線沿いのスギ薬局黒野店の北に黒野城跡公園が在ります。現在は主郭と
主郭を囲む高い土塁と堀が全周残っています。往時の虎口は西側のみで、二の丸と土橋で繋
がっていました。縄張り図は土橋の袂にある『黒野城下町案内』に詳しく描かれています。
主郭の西に二の丸、南に加藤平内屋敷、北西に加藤図書屋敷、東に加藤主馬助屋敷と主郭を
一族の屋敷が囲み、周りに家臣の屋敷を置き、それら全体を外堀が囲む惣構の造りになって
います。外堀は今でも多賀神社の北側や西木戸跡・東木戸跡辺りで見ることが出来ます。惣
構の外になりますが、黒野と下鵜飼1丁目の境目〔用水路脇〕にも土塁も残っています。
黒野城阯碑と看板
加藤貞泰公顕彰碑
土塁に囲まれた主郭
主郭南端の土塁
南東櫓跡
主郭東端の土塁
主郭北東角の土塁
北西櫓跡
主郭西端の土塁
主郭南西角の堀
主郭西側の堀
主郭北西角の堀
北西櫓台と堀
主郭北側の堀
南東櫓台と堀
惣構の堀・多賀神社裏
惣構の土塁・下鵜飼1丁目
東木戸跡・古市場
東木戸跡脇の堀・古市場
西木戸跡・古市場
西木戸跡脇の堀・古市場